ザ・バンド『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』知られざる10の真実

2. 『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』のレコーディングはビッグ・ピンクでは行われていない

タイトルとは裏腹に、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』はビッグ・ピンクでレコーディングされたわけではなく、『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』収録曲の大半もまた然りだ。場当たり的なベースメントセッションのタイムラインは大雑把だったが、1967年の初春にバードクリフにあったディランの自宅Hi-Lo-Haで本格的なレコーディングを開始し、同年初夏にその舞台をかの有名な地下室に移している。同年10月にリヴォン・ヘルムが2年ぶりにバンドに復帰すると、ビッグ・ピンクは手狭に感じられるようになったため、4人は新たな住居を探すことにした。ヘルムとリック・ダンコはWittenberg Roadにあった一軒家に入居し、そこはやがてレコーディングセッションの中心となる。ガース・ハドソンとリチャード・マニュエルはOhayo Mountain Roadにあった小さな小屋で暮らし始め、ロビー・ロバートソンは同じ家でのちに妻となる女性との共同生活を続けた。

1967年秋に行われたハワード・アルクの誕生日パーティーにて、ザ・バンドのメンバーはフリーランスプロデューサーのジョン・サイモンと意気投合する。マネージャーのアルバート・グロスマンはレコーディングの予算を確保し、ニューヨークの799 Seventh Avenueの7階にある敷地面積1万平方メートルを誇るA&R’s Studio Aを抑えた。1968年1月初旬にレコーディングを開始する際に、サイモンがバンドにどういったサウンドを求めているのかと尋ねると、ロバートソンは簡潔に「あの地下室の音が欲しい」と答えた。「あの地下室でのセッションから学んだのは、6時以降は音を出せず、誰もが時計を気にしているような環境じゃ、優れた音楽は生まれないってことだった」ロバートソンは2015年にUncut誌にそう語っている。「向こうが僕たちのやり方に合わせる必要があるって言ってやったよ。その逆じゃなくてね」


Photo by Elliott Landy/MAGNUM

エンジニアたちは当初、音の被りを抑えるためにメンバーたちの間に仕切り板を設けるという、ごく一般的な手法を実践していた。しかし、何カ月もの間シンダーブロックに囲まれた空間で互いに向かい合って演奏していた彼らは、その距離感に言いようのない違和感を覚えていた。「こう言ったよ。『これじゃダメだ。あの地下室でやっていたように輪になって、互いの顔が見える状態で録るべきだ。このやり方じゃ、音による会話は生まれない』」ロバートソンはそう話す。エンジニアたちは懐疑的だったが、最初のセッションで録った「怒りの涙」「ウィ・キャン・トーク」「チェスト・フィーバー」「ザ・ウェイト」のサウンドに、メンバーたちは大いに満足していた。2月上旬にバンドと契約を交わしたCapitol Recordsの重役たちもその出来に手応えを感じ、ロサンゼルスのVine Streetにそびえる高層ビル内にある、最高クラスの8トラックレコーディングが可能だったスタジオを彼らのために抑えた。同作の大半はここで録音されているが、バンドはフィル・スペクターがウォール・オブ・サウンドを確立したことで知られるGold Star Studioでもレコーディングを行っている。ヘルムは自伝で、同スタジオでビッグ・ビル・ブルーンジーの「キー・トゥ・ザ・ハイウェイ」を録った時のことについて触れているが、そのセッションの音源は1曲もアルバムには収録されなかったと考えられている。

Translated by Masaaki Yoshida

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