ザ・バンド『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』知られざる10の真実

ザ・バンド『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』ジャケット画像


1. 「ビッグ・ピンク」はロックスターらしからぬ寂れた建物だった

ビッグ・ピンクにまつわる物語は、1966年7月29日にニューヨーク州ウッドストックの郊外で、ボブ・ディランが愛車のバイクTriumph Tiger 100を走らせていた際にハンドルを切り損ねたところから始まる。事故によって負傷したロック界の吟遊詩人は近所にある自宅での療養を余儀なくされ、予定されていた全てのコンサートをキャンセルしたため、そのバックバンドのメンバーたちはスケジュールの大幅な変更を強いられた。ドラマーのリヴォン・ヘルムはその前年にバンドを脱退し(後に復帰する)、メキシコ湾の石油採掘場で働いていたが、他のメンバーたちは直面したその状況をキャリア変更の良い機会だと捉えた。「どうしていいかわからなかった」リヴォン・ヘルムの自伝『ザ・バンド 軌跡』において、ダンコはそう述べている。「ツアーミュージシャンである僕たちは、完全に行き場を失くしてしまってた。それでもレコーディングをしたいっていう気持ちは変わらなかったから、近場で音が出せる場所を探し始めた」

僅かな手付金で暮らしていかねばならないミュージシャンたちにとって、ニューヨークでの暮らしは非現実的だった。そこで彼らは、ディランと共通のマネージャーのアルバート・グロスマン、そしてニューヨークの音楽仲間たち数人が暮らしていたキャッツキルの田舎町に移住することを考えた。ダンコとリチャード・マニュエルの2人は、1967年2月にピーター・ヤーロウ(グロスマンが同じくマネージメントしていたピーター・ポール&マリーのメンバー)の映像プロジェクトへの参加で同地を訪れていた。またロビー・ロバートソンも、ディランとハワード・アルクが取り組んでいた『Eat the Document』(終えたばかりだったイギリスとアイルランドツアーのドキュメンタリー)の制作をサポートする目的でその地を踏んでいた。手付かずの森と連なる山々、キャッツキルの大自然はツアーに明け暮れていたミュージシャンたちをあっという間に魅了した。「まさに理想的な場所だった」Barney Hoskyns著『Across the Great Divide』において、ガース・ハドソンはそう話している。「ウッドストックはマジックに満ちてた。ワワージング、オハヨ、ベアーズビル・フラット、あらゆる場所に伝説を想起させる名前が付いてるんだ」


ガース・ハドソンがビッグ・ピンクを再訪した、米ローリングストーンによる2014年の動画。終盤には彼がピアノを弾くシーンも。

ダンコはWoodstock Motelを仮住まいとしながら、メンバーたちが共同生活する家を探していた。「クラブハウス、つまり居住空間と音を出せるスペースの両方を備えている物件を探していた」ロバートソンは2016年発表の『ロビー・ロバートソン自伝 ザ・バンドの青春』でそう述べている。ほどなくしてダンコが見つけたソーガティズの2188 Stoll Roadにある2階建ての箱型の建物は、まるで郊外から空輸で運び込まれたかのようだった。サーモンを思わせる派手な色の塗装が施されたその家は、地元の住民たちからビッグ・ピンクと呼ばれていた。お世辞にも趣味がいいとは言い難かったが、数百エーカーに及ぶ緑豊かな敷地、Overlook Mountainを望む景色、大きな池、4つの寝室、シンプルなキッチン、ダイニングルーム、そして家具一式と「Beer」のネオンサインを備えたリビングという充実ぶりでありながら、月125ドルという条件はまさに破格だった。しかし何より魅力的だったのは、決して豪華ではないが広々とした地下室だった。「一番の課題は、その味気ない空間を僕たちのレコーディングルームに生まれ変わらせることだった」ロバートソンはそう記している。「ライブで使っていた機材を片っ端から持ち込んで音を出しながら、僕たちだけのサウンドを見つけること。それが目標だった」

ロバートソンとハドソンはホームレコーディングに必要な機材を揃えるという役目を買って出たが、機材に詳しい友人からの返答は2人を困惑させた。「付き合いのあった友人に、その地下スペースを見てもらった」ロバートソンは2011年にそう語っている。「彼はこう言った。『使い物にならないな、手の施しようがない。床はコンクリートで壁はシンダーブロック、おまけに巨大な金属製のボイラーまである。レコーディングスペースにはご法度の要素が全て揃っちまってる。デモを録るだけだとしても、まともなものにはならないだろう。録った音を聴き返してみれば、きっと気が滅入ると思うよ。あまりの音の悪さに、2度とレコーディングなんてしたくないと思うかもしれない』」しかし彼らは賃貸契約を既に結んでおり、もう後戻りはできない状況だった。彼らはそのスペースにNorelcoのマイク数本、Altecのミキサー2台、そして1/4インチのAmpex 400テープレコーダーを設置し、天に祈るような思いで見切り発車した。

ハドソン、マニュエル、ダンコの3人はその年の春にビッグ・ピンクに入居し、ロバートソンはフランス系カナダ人ジャーナリストのガールフレンドDominique Bourgeoisと共に、ビッグ・ピンクのすぐ近くにあった家で暮らし始めた。ほどなくして、彼らはシンプルな生活パターンを確立する。「料理は全部リチャードが担当した」ダンコは『ザ・バンド 軌跡』でそう述べている。「ガースは全員分の皿を洗い(綺麗好きの彼はその役を他の誰かに任せようとしなかった)、僕はゴミ出しを引き受け、誰から言われるでもなく暖炉に薪をくべてた」。彼らの精神的支柱だったディランは頻繁にビッグ・ピンクを訪れるようになり、その度に地下室でセッションを行なった。「曲が次から次へと生まれ、マジックが起きていると誰もが感じてた」ロバートソンはHoskynsにそう語っている。「誰かが何か思いつくたびに、地下室に移動してレコーディングした。しばらくするとまた誰かがアイディアを出す、そういうサイクルを繰り返してた。僕は自分の寝室でギターを弾き、ボブはタイプライターで言葉を紡ぎ、他のメンバーも何かを生み出そうと常に試行錯誤してた。そういう雰囲気の中で、素晴らしい作品が生まれつつあることを全員が感じていた」。同年にレコーディングされた100曲以上の音源(「The Basement Tapes」と題されたブートレグ音源が多数出回り、2014年にボックスセットとして正式にリリースされた)は、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の青写真となった。

Translated by Masaaki Yoshida

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