BLMで再注目、名曲「奇妙な果実」の歴史的背景と今こそ学ぶべきメッセージ

「最初は不安だった」作曲の背景とビリー・ホリデイとの邂逅

「奇妙な果実」をめぐる物語はドラマと驚きの連続だ。作家のデヴィッド・マーゴリックの著作『ビリー・ホリデイと《奇妙な果実》―“20世紀最高の歌”の物語』や、ジョエル・カッツによる2002年のドキュメンタリー『奇妙な果実』、また研究者のナンシー・コヴァレフ・ベイカーによる研究で詳述されているように、この曲はもともとブロンクスに住む白人のユダヤ人教師が書いたものだ。エイベル・ミーアポルは、デウィット・クリントン高校で1927年より英語を教えていた人物で、熱心な共産主義者であり先進的な思想家、そしてまた兼業のライターであり詩人でもあった。

1930年代のある時期のこと、ミーアポルはリンチの様子を写した写真と出会った。おそらくは雑誌のなかでだろう。当時、リンチは驚くほどありふれていた。昨年、歴史学者のチャールズ・セガンとデヴィッド・リグビーによって行われた最新の研究によれば、1883年から1941年まで、アメリカでは4467人――そのうち3265人が黒人――がリンチされていたという。こうしたおぞましい現場の写真は絵葉書になった(“連中は吊るされた死体の絵葉書を売っている”というボブ・ディランの「廃墟の町」の一節はこうした慣習を指している)。ミーアポルが見た画像は彼につきまとい、まずはある詩のなかに現れた。「苦い果実(Bitter Fruit)」、1937年に労働組合の出版物に彼が寄せた作品だ。

【画像を見る】「奇妙な果実」のモチーフとなった黒人リンチの写真(閲覧注意)

ミーアポルは音楽の教育を受けていなかったが、独学の作曲家でありピアニストだったこともあって、ほどなくこの詩に幽霊のような、瞑想的なメロディをつけた。「奇妙な果実」と改題したこの曲は何度か演奏されており、たとえばマディソン・スクウェア・ガーデンではシンガーのローラ・ダンカンが歌っていた。この曲がホリデイのレパートリーになる前のことだ。ホリデイはその後、ニューヨークのカフェ・ソサエティ・クラブでこの曲を演奏していた。ホリデイはただ歌っただけではない。彼女は歌の中に住まった。それゆえに歴史に残る録音の機会を得たのだ。



ホリデイは、聴衆がこの曲を聞きたいと思うか、すぐに確信を持てなかった。「私は、みんながこの曲を嫌うのでないかと恐ろしかった」。回想録『奇妙な果実―ビリー・ホリデイ自伝』に彼女はこう記した。「最初に歌った時は、これは失敗だ、不安は当たってたんだと思った。歌い終わっても拍手ひとつさえなかった。けれどひとりがそわそわと手をたたき始めた。すると出し抜けにみんなが拍手しはじめた」。「奇妙な果実」はホリデイのセットの中心になり、効果を最大限発揮するため、しばしばショウの最後に歌われた。ある批評家が当時こう書いている。「この曲は、ミス・ホリデイの属する人種がこのキリスト教国の抱える不正義に向けて放った、間違いなく最も効果的な叫びだ」。

議論を呼ぶことを恐れ、ホリデイの所属レーベルであるコロンビアは、この曲のレコーディングを行わなかった。ホリデイはコモドールというもっと小さなレーベルに出向き、1939年に録音した。まばらで慣習から逸脱した編曲と鮮明な歌詞を通じて、彼女による「奇妙な果実」の録音はセンセーションを巻き起こし、同年にコモドールからリリースされた一枚はホリデイのヒット作になった。

Translated by imdkm

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