関係者が今こそ明かす、ワン・ダイレクションが21世紀最大のボーイズバンドになった理由

大人になるか、さもなくば退くか

当然のごとく、『テイク・ミー・ホーム』がリリースされるやすぐに3rdアルバムの制作がスタートした。だが最初の2枚と違って3枚目は、スタジオ収録に専念する時間を確保するのは困難だった――2013年2月23日のロンドン公演を皮切りに、ワン・ダイレクションは全123公演のワールドツアーをスタートすることになっていた。すなわち、作曲も収録もツアー先でやらなくてはならない。コテチャとフォーク――どちらも子供が生まれたばかり――には無理な相談だった。

だが、制作面でも転換期を迎えていた。コテチャ自身も、自らのボーイズバンド哲学からそう感じていた。結局のところ、3枚目のアルバムは前に進む時なのだ。ワン・ダイレクションも動き出す時期にきていた。コテチャは最年長メンバーのルイのおかげだと言う。「彼が1st、2ndアルバムのあどけなさから、大人の領域へとメンバーを導いてくれました。もっと成熟したサウンドになるよう、周りを引っ張ってくれたんです。あの当時現場にいて、僕もラミもカールもよくわかっていませんでした――だけど、今振り返ってみれば正しい判断だったと思います」

「3年間、僕らのスケジュールはこんな感じだった」とブネッタは言う。「10月、11月、12月に『Xファクター』に出演する。1月はオフを取って、2月にロンドンへ向かう。バンドとアイデアを持ち寄ったり、サウンドを考えたりして一緒に過ごす。そのあと3月にLAに戻って、いくつか曲をプロデュースして、4月にバンドとツアーで合流する。ボーカルを収録して、1~2曲書いて、5月に戻ってきてボーカルの作業をしたり、ツアー先で書いた曲をプロデュースしたりする。6月ごろロンドンに行って、7月にまたこっちに戻ってプロデュース。8月にまたツアーに合流して、最終的な歌入れをして、9月にミキシング。10月に『Xファクター』を再開して、11月にアルバムリリース。1月にオフを取って、あとはまた同じことの繰り返しさ」

そうしたサイクルは2013年初期、ブネッタとライアンがロンドンに飛んだ時から始まった。わずか1週間弱の滞在だったが、『ミッドナイト・メモリーズ』の大半が完成した。ジェイミー・スコットやウェイン・ヘクター、エド・ドリューエットといった作曲家らを招いて「ベスト・ソング・エヴァー」「ユー・アンド・アイ」を、スコットとワン・ダイレクションが共同で「ダイアナ」「ミッドナイト・メモリーズ」を書いた。2人とバンドの絆は始めから固かった――2人ともメンバーと数年しか歳が離れていない。だがブネッタも冗談めかして言うように、「どのみち、俺たちはいつも19歳みたいだからね」 数年前、ブネッタは「ミッドナイト・メモリーズ」制作のようすを収めたオーディオクリップを投稿した――仮コーラスのパートでは、声を張り上げ、完全にハモりながら『KFCが大好きだ!』と歌っている。




ブネッタ、ライアン、1Dは、おおむね前任者が築いたロックサウンドを継承した。だがひとつだけ例外があった。ポスト・マムフォードとでもいうべきフェスティバルフォークの秀作。歌詞の面でもボーカルの面でも成熟度が光る「ストーリー・オブ・マイ・ライフ」だ。

「この曲で彼らは賭けに出た」とブネッタ。「大人になるか、さもなくば退くか――彼らは成長する道を選んだ。彼らが目指したところにたどり着くには、自分たちのファン層を超えなくちゃならない。あの曲は彼らのファン層をはるかに超えて、世間の関心を惹いた」



『ミッドナイト・メモリーズ』の制作はツアー先でも行われた。彼ら以前のバンドがみなそうだったように、ワン・ダイレクションも音楽の新境地を拓いた。それを可能にしたのはツアーエンジニアのアレックス・オリエットだった。ライアンの話では、ホテルの客室のベッドを壁に立てかけて仮設のボーカルブースを作ったそうだ。時間が許す限り、作曲とレコーディングをねじ込んだ――開演20分前でも、2時間にわたるショウの直後でも。

「おかげで臨場感をとどめることができた」とブネッタ。「俺たちは現地に行って、レコーディングして、常にその場の空気に身を委ねる。後から再現するのではなく、その瞬間をとらえるんだよ。曲を書いてはホテルで歌入れし、プロデュースして、また戻ってきて歌入れする、ということを繰り返した――たいていは、デモ録りのボーカルのほうがずっと良かった。彼らは歌詞もろくに覚えてなかったが、気分が乗っていた。そういうパフォーマンスは再現できないものさ」

Translated by Akiko Kato

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