史上最高のベーシスト50選

左からブーツィー・コリンズ、フリー、エスペランサ・スポルディング(Photographs used in illustration by AP/Shutterstock; Joseph Okpako/WireImage; Elaine Thompson/AP/Shutterstock)


28位 アストン・’ファミリー・マン’・バレット

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ボブ・マーリーを支えたザ・ウェイラーズのリズム隊の片割れ、アストン・バレットは弟のカールトンとともに、レゲエのワンドロップのリズムを世界中に知らしめた。しかし、「レゲエの構築者」を自称する彼の功績はレゲエにとどまらず、ポップやR&B、ファンク等にも大きな影響を与えた。ハリー・J・オールスターズの1969年発表のインスト曲「The Liquidator」における軽快なベースラインは、その3年後にステイプルズ・シンガーズが放った大ヒット曲「アイル・テイク・ユー・ゼア」の基盤となっている。「ドラムは心臓であり、ベースは背骨なんだ」バレットはそう話している。「ベースが良くなければ体全体を支えることができず、アンサンブルは崩壊する」。ウェイラーズのリーダーのストーリーテリングを熟知していた彼は、ベースラインを考えるよりも前に、マーリーの書いた曲を隅々まで理解しようとした。「バリトンのパートを歌うつもりで弾くんだよ」自身のベースプレイについて、彼はそう語っている。「常にメロディックなラインを意識してるんだ」




27位 デヴィッド・フッド

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ステイプルズ・シンガーズの「アイル・テイク・ユー・ゼア」、アレサ・フランクリンの「オー・ノー・ノット・マイ・ベイビー」、エタ・ジェイムスの「テル・ママ」、R.B.グリーヴの「Take a Letter, Maria」等、60年代と70年代で最もファンキーなレコードには共通点がある。それはデヴィッド・フッドがベースを弾いていることだ。アラバマ州マッスルショールズにあるフェイム・スタジオの従業員としてスタートし、1969年にマッスル・ショールズ・サウンドのリズム隊として名を馳せたフッドは、小柄な体型を理由に「リトル・デヴィッド」というニックネームで呼ばれていた。「アイル・テイク・ユー・ゼア」でしなやかなソロを弾く部分では、メイヴィス・ステイプルズが彼をその名で呼ぶのを耳にすることができる。脈打つような深みのあるベースラインを生み出す彼を、ステイプルズは「至高のリズムセクション」と形容した。キーボーディストのバリー・ベケットや、ドラマーのロジャー・ホーキンス等、マッスルショールズを代表するその他のミュージシャンたちと共に、ポップ(ポール・サイモン「僕のコダクローム」、ロッド・スチュワート「さびしき丘」)、ブルース(ボズ・スキャッグス「ローン・ミー・ア・ダイム」)、ロックとR&Bのフュージョン(ボブ・シーガー「忘れじのロックン・ロール」)等、フッドは様々な分野で見事なベースプレイを披露している。また彼の息子はパターソンは、ドライブ・バイ・トラッカーズのシンガー兼ソングライターでもある。フッドは自身の功績について、一貫して謙虚な姿勢を保っている。ステイプルズ・シンガーズのクラシック「リスペクト・ユアセルフ」について、彼はこう語っている。「あの曲にもちょっとしたベースソロがあるね。冒頭と中盤で数小節弾いてるけど、あれはメロディックなフックに過ぎない。僕らはただポップなレコードを作ろうとしてたんだよ」




26位 イスラエル・ロペス・カチャオ

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イスラエル・ロペス・カチャオのキャリアは1930年代にピークを迎えたが、彼のスタイルは今日のあらゆるタイプの音楽に息づいている。彼がピアニスト兼チェリストの兄オレステス・ロペスと共に、ハバナの社交場を渡り歩く中で生み出したアフロ・キューバンフュージョンのマンボは、サルサやキューバンジャズ、R&B、ロックンロール、そしてラテン音楽の要素を取り入れたモダンなポップスのすべてに影響を与えた。「キューバのスタイルの一部はアフリカンなんだ」彼は後年にそう語っている。「キューバのあらゆる文化には、征服者としてのアフリカン・カルチャーが反映されている。それはキューバの人々の遺伝子の一部であり、自然と滲み出るものなんだ」。指板をダイナミックに行き来するライン、アンサンブルの中でも際立つエレガントかつ大胆なプレイスタイル、力むことなくビートを刻む正確無比なリズム感など、彼のスタイルはキューバ音楽の最大の魅力であるリッチで奔放なインプロビゼーションにおけるお手本となった。また彼は1950年代に、ジャズに影響を受けたジャムセッションのデスカルガを生み出している。カチャオは60年代にアメリカに移住したが、彼の功績を世に広めたのは90年代にリリースされた名演集『マスター・セッションズ VOL1&2』だった。




25位 クリフ・バートン

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ジェイムズ・ヘットフィールド、デイヴ・ムステイン、ラーズ・ウルリッヒの3人がメタリカを結成した時、彼らは目にも留まらぬ高速プレイを武器とするスラッシュメタルを追求するつもりだったが、クリフ・バートンとの出会いによってそのヴィジョンは一変した。彼は当時ライバル的存在のバンドでベースを弾いていたが、ライブの場で目撃した凄まじいベースソロに衝撃を受けた3人はバートンをヘッドハンティングし、彼の希望通り拠点をロサンゼルスからベイエリア(バートンの地元)に移した。メタリカに正式に加入したバートンは、R.E.Mやミスフィッツ、バッハ等の魅力をメンバーに教えることで音楽的ヴィジョンを飛躍的に拡大させ、バンド史上最もタフな曲群に知識と技術に裏打ちされたベースラインを吹き込んだ。1983年のデビュー作『キル・エム・オール』に収録されている「(アネージア)プリング・ティース 」では、クラシック音楽をアグレッシブにしたかのような巧みさと、歌っているかのようなワウが魅力のベースソロを聴くことができる。また「ダメージ・インク」におけるデリケートなイントロや「オライオン」の間奏部分は、スラッシュメタルがどれほど美しくなり得るかを証明している。1986年にバス事故でこの世を去った後も、彼の美学はバンドに受け継がれている。「誰かを貶めるつもりはないけど、彼は桁違いのプレイヤーだった」ウルリッヒはバートンについてそう語っている。「(アネージア)のレコーディングにおいて、あのベースソロは曲に音楽的な深みをもたらした。登場人物が3倍に増えたような、異なるダイナミクスを生んだんだ」。2019年にメタリカがサンフランシスコ交響楽団とコラボレートした際には、オーケストラのベースプリンシパルが「(アネージア)」をバートンに捧げることを提案したという。


Translated by Masaaki Yoshida

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