ガガやアリアナの近作に貢献、無名のグラム・ロッカーがポップスの世界で成功できた理由

クイアならではの苦労、バンドの世界と異なる点

ヴィンテンによって扉が開かれると、トレンターは週に8〜10回セッションを行うようになり、書き上げる曲も週に1ダース近くになった。全力で頑張ったのだが、途中でいくつかの落とし穴も出現した。トランターが説明する。「一番の苦労は拒否されることだった。アーティストとしてレコード契約を切られる。これは拒否だ。他人のために心を開いても観客はあまり気に入ってくれない。これも拒否だ。ソングライターになっても、人々から毎日『ダメ。あの曲は嫌いだ。あの曲は十分じゃない。ダメ、ダメ、ダメ』という内容のメールがたくさん届く。そういうことが僕には奇妙に思えたよ。ミュージカルのオーディションを受けようとする中学生の自分に戻った気分だった」と。

それよりも何よりも、曲作りの現場にはクイアを公にしている人はほとんどいなかった。そのため、頻繁に気まずい空気が流れ、同性愛嫌悪の発言もしばしば耳にした。トランターは「音楽ビジネスでも、このソングライティング業界が相当な男社会なことに衝撃を受けたね。バンド活動をしているときは自分の世界を構築するのは自分自身だ。でも、ソングライティングの世界ではA&R担当者とマネージャーと仕事をしないといけないし、仕事に関わる人たち全員との共同作業を強いられるわけだ。僕のバンドのメンバーは全員ストレートだったけど、彼らはとても進歩的な考え方で、芸術家気取りで、良い意味で変だった。ポップスの世界に入ったら、セッション中にバスケットボールの試合を見ている人がいた。これはカルチャー・ショックだったよ。特に最初の1年は、僕はステージに立つ気分ですべてのセッションに参加していたから、フルメイクだったし、ヒールが15センチの靴を履いていた。それを見た相手はみんな困惑していたね」と説明した。

しかし、ヴィンテンが苦心して道を開拓したことで、トランターはジュリア・マイケルズ、マットマン&ロビンなどのヒットメーカーたちと仕事をするようになった。マットマン&ロビンとはセレーナ・ゴメスの「Lose You To Love Me(原題)」を共に手掛けている。仲のいいソングライターやプロデューサたちは“彼ら”独自のものの見方を正当に評価している。トランター自身、これまであらゆる種類の会場でパフォーマンスした経験を持つ。ポップスターのオープニングからパンク・バーでのヘッドライナーまで、あらゆる場所を経験した。複数のレコード・レーベルとの契約と離別を経験したことで、“彼ら”はアーティストの言葉をしゃべるようになった。そして、ソングライターたちとではなく、アーティストと直接セッションを行うようになって、トランターの言葉を借りると「すべてがカチッとはまった」のだ。

Translated by Akiko Kato

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