不条理な世界と闘った、音楽史に残る「反逆のアイコン」15選

左からエルヴィス・コステロ、マリリン・マンソン、フェラ・クティ


10. パブリック・エネミー


ヒップホップによる音楽革命「権力と闘え」

チャックDの轟く声とバンドメイトによる音の暴力のおかげで、パブリック・エネミーは狙っていたリアクションを獲得することができた。彼らが近づくと、上流社会は彼らを避けて通りの向こうへ逃げていった。彼らのランドマークとなる楽曲「ファイト・ザ・パワー」は、スパイク・リーの長編映画におけるブレイクスルーとなった『ドゥ・ザ・ライト・シング』の鍵だった。この曲はまた、メインストリームのアメリカ文化に対するパブリック・エネミーの徹底した軽蔑をたしかなものにした。彼らはエルヴィス・プレスリーやジョン・ウェインといったアイコニックなヒーローたちを一撃で退けたのだ。1988年のアルバム『パブリック・エネミーⅡ(It Takes a Nation of Millions to Hold Us Back)』からの1stシングルは「レベル・ウィズアウト・ア・ポーズ」。チャックDにとってこの曲は、バンドが巻き起こしたいと願ってきた、いわば音楽的な暴動を象徴するものだ。「明日死んでもいいくらいだ」ハンク・ショックリーによるワイルドな最終ミックスを聞いたチャックDはこう言ったという。近年ロックンロールの殿堂入りを果たした際に彼が語ったところによると、予測不能なサイドキックであるフレイヴァー・フレイヴを御してきたために、チャックの役割は長い間「キャンプのリーダー」みたいだったという。




11. マリリン・マンソン


社会の闇を体現したアンチヒーロー

小学校に通う誤解されがちな子供たちすべての代弁者として、元ブライアン・ワーナーは自らのペルソナとキャリアをつくりあげ、奇抜さを誇張してみせることで人と違うことを祝いだ。彼のステージネーム――マリリン・モンローと大量殺人犯のチャールズ・マンソンの組み合わせ――ひとつとっても、ショック効果を最大にするために考えられたものだった。おぞましい厚塗りのメイクとコンタクトレンズで、彼はまるでアンデッドのよう。その姿でマンソンは自らを「アンチクライスト・スーパースター」として提示したのだった。1999年、コロラド州のコロンバイン高校における銃乱射事件の後、マンソンは自分の音楽が犯人たちをそそのかしたのではないかと非難され、自己弁護を余儀なくされた(蓋を開けてみると、彼らはマンソンのファンではなかった)。この事件以来、彼は思いのよらぬ理性の声としての姿を表すようになり、「こういう無責任な非難が人と違って見える子供たちに対する差別を増やさないことを望む」と表明した。

●マリリン・マンソン、この上なく衝撃的な瞬間11選




12. スティーヴ・アール


オルタナ・カントリーの先駆者、波乱万丈のアウトロー

ハードコアなカントリーの伝統主義者であるスティーヴ・アールは、自らのキャリアをかけてナッシュヴィルのエスタブリッシュメントに反抗し、かつてグリニッチ・ヴィレッジのフォークシーンが育んだ左翼的な価値観を擁護した。敬愛するソングライタ―であるタウンズ・ヴァン・ザントを称えるなかで、彼はヴァン・ザントをこう呼んだ。「全世界で一番のソングライター。カウボーイブーツを履いて、ボブ・ディランのいるコーヒーテーブルの上に乗って言ってもいいくらいだ」。9.11以後、アールは「ジョン・ウォーカー・ブルース」をめぐって世論を二分する存在になった。この曲が、アフガニスタンでタリバン軍として戦ったジョン・ウォーカー・リンドを人間味あふれる人物として描こうとしたものだったからだ。アールは楽曲で反戦プロテスターたちへの支持やオキュパイ・ウォール・ストリート運動への支持、そして死刑制度への反対を表明してきた(たとえば「エリス・ユニット・ワン」を参照。『デッドマン・ウォーキング』のサントラに収録されている)。「私は父親が最も恐れたことを具現化した存在だ」アールは1990年に「ジ・アザー・カインド」でこう歌った。当時、彼は深刻な薬物中毒と戦っていた。「壊れ、屈服する者もいるが/私はまた別の類の者だ」


Translated by imdkm

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