リトル・リチャードが生前に語った、ロックンロールの夜明けと過小評価されてきた生涯

リトル・リチャード(Photo by Shutterstock)

リトル・リチャードが87歳で亡くなった。今よりも遥かにマイノリティへの差別が激しかった時代に、黒人として生まれ、同性愛者であることをカミングアウトしてきた彼は、派手なメイクをしてステージに立ち、エネルギッシュな演奏と叫ぶような歌声でもって、多くの人々を勇気づけてきた。彼の生み出した音楽はビートルズやローリング・ストーンズなど、後進にも大きな影響を与えている。偉大なるロックンローラーの功績を振り返るため、米ローリングストーン誌による2004年のインタビューをここに掲載する。


俺のことを多くの人々が「ロックンロールの創始者」と呼んでいる。自分ではそんなふうに名乗っていないけど、たしかにその通りだと思う。覚えておいてほしいんだけど、俺は1951年の時点ですでに知られていた。エルヴィスよりも先にRCAビクターでレコーディングしていたんだ。それから俺は、ヒューストンのピーコックで録音した。さらに、スペシャルティ・レコードがピーコックから俺を引き抜いてくれた。彼らは俺のために500ドル払ってくれたんだと思う。そして1956年、俺がスペシャルティ・レコードから発表した最初の曲「トゥッティ・フルッティ」がヒットした。世界的に大当たりしたんだ。「ついにここまで来た!」と思ったよ。



そこからすぐ、ツアー三昧の日々が始まった。車でそこら中を旅して回った。当時は人種差別が酷かったから、ホテルには入れてもらえず、車中泊をすることが多かった。食事も車で済ませてたし、デートするときも車のなかで着替える感じだった。俺はキャデラックを持っていた。スターはみんな乗ってたんだ。

リベラーチェがステージ上で着飾ってたのを覚えてるよな? 俺はいつもああいう派手な衣装を着て、パンケーキメイクもしていた。ザ・キャディラックス、ザ・コースターズ、ザ・ドリフターズなど、当時は他のパフォーマーたちも化粧をしていたけど、化粧道具までは持ってなかった。あいつらはポケットにスポンジと小さなコンパクトを入れていたけど、俺は化粧道具を一式持っていた。それで、みんなが俺のことをゲイと呼び始めたんだ。

人々はロックンロールを「アフリカンミュージック」と呼んでいた。彼らはそれを「ヴードゥー(気味の悪い)音楽」と呼んでいた。そういった音楽が、子供たちを狂わせるっていうんだ。今日のヒップホップに対する文句と一緒だけど、当時はもっと酷かった。これも覚えておいてほしいけど、俺は初めての黒人アーティストで、俺のレコードを白人の子供たちが買うようになった。おかげで、彼らの親御さんには恨まれたもんだよ。それに、(観客の)キッズが暴れ回るものだから、演奏するたびに「二度と来るな!」と言われてきた。キッズたちはストリートを荒らしたり、瓶を投げたり、ショウの時には劇場のバルコニーから飛び降りたりしていた。当時、白人の子供はバルコニーにいなければならなかった。彼らは「白い見物客」だった。でも、彼らは黒人の子供たちが盛り上がってる階下に行くため、バルコニーを飛び越えたんだ。

Translated by Rolling Stone Japan

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