追悼トニー・アレン、アフロビート・ドラミングを生み出した男

フェラ・クティとの運命的な出会い

クティがアレンと初めて会ったのは1964年だった。「開口一番、彼が言ったのが『この国で一番のドラマーだって自分で言ったのは君か?』だった。笑って『そんなことは一度も言ったことがない』と答えた。するとジャズは弾けるかと聞くからイエスと答えた。そしたら、ソロは叩けるかと言うから、再びイエスって答えたよ」と、アレンが当時を思い出して語ったことがあった。

その後、アレンはクティのバンド、クーラ・ロビトスのドラマーになる。当初リスナーはこのグループの音楽スタイルをはかりかねていた。アレンが「あの国では初めて聴く革命的な音楽スタイルだったのさ。ハイライフに慣れ親しんでいた彼らにしてみれば奇妙な音楽だったんだよ」と説明した。

1969年にアメリカを訪れたのち、アレンとクティはアフロビートのサウンドをコピーして無限につなげる作業を始めた。これはフルバンドのダンス・ミュージックで、複雑で焼けつくように熱いホーン・パート、荒々しく容赦ないギター・サウンド、忙しく動き回る活発すぎるベース・ラインが興奮の度合いを上げた。アメリカのファンク同様、すべての楽器がパーカッシブなエンジンとして機能し、楽曲に躍動感を与えていたのだが、アフロビートはファンクよりもソロやメロディを逸脱した独創的なプレイを入れ込む余裕があり、そんなソロや即興フレーズが時には10分、12分、17分と続くこともあった。

アレンは音楽の中で突風を巻き起こすバンドの中心的な存在だった。聴く者を即座に絡め取るリズムの網を張り巡らしながら、曲を圧倒することなしに生気を与えた。あらゆる世代のミュージシャンを魅了したのがこれだ。2017年にミシェル・ンデゲオチェロは「ドラムの躍動感というのはハードで硬いものだと思っていたの。でもトニー・アレンを聞いてその流動性に気づいたし、パルスの中にある敏捷性を理解したわ」と語っている。

イーノが70年代初頭に、ロンドンのレコードショップでクティのアルバムを買ったのは、ほんの思いつきだった。「たぶんアルバムのジャケットが気に入ったんだと思う。それにバンドメンバーの多さも良かったんじゃないかな」と2014年にThe Vinyl Factoryに述べている。「その思いつきが、音楽の可能性に対する考え方をガラリと変えた。初めてトーキング・ヘッズに会ったとき、一緒に音楽を作ろうってことになったんだけど、そのとき彼らに聴かせようと(クティの1973年のアルバム『Afrodisiac(原題)』を)かけたんだ。『これが未来の音楽だ』と言ってね」と。

そして、イーノは「プレイヤー同士の絡みつきの濃厚さが大好きだね。その中に混在する規律と自由の関係性が大好きなんだ。何でも好きなことをやっちまえ的なジャムじゃない。かと言って、オーケストラみたいに強制的にこれを彈かなきゃ的な不自然さもないんだ」と述べている。

Translated by Miki Nakayama

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