【追悼】アダム・シュレシンジャー 長年の親友が大学時代からの思い出を綴る

すべてのアダムが永遠に消えてしまった

新型コロナウイルスによる閉鎖にもかかわらず、世界中の死者数は酔いも瞬時に覚める勢いで増え続けており、生きている私たちはいつ自分の番がくるかと不安な気持ちで生活している。「みんなが想像しているよりも酷い状況になるのか?」「回復は困難なのか?」「みんな心配しすぎているのか?」「普段の生活にいつ戻れるのか?」。今の状況はまるで嫌々やっている火災避難訓練のようなもので、寒空の下で消防士の合図をイライラしながら待っているのと似ている。早く建物の中に入って普段どおりの仕事に戻りたいと。

私を含めてアダムを個人的に知っている人々にとって、このウイルスは予想外の出来事を引き起こした最悪の存在だ。この感染症以上にダメージを与えるものは「治療法がない」という事実で、今ではもう「普段の生活」に戻ることなど不可能だ。私たちの普段の生活は二度と戻ってこない。だって、笑うアダム、父親のアダム、冗談を言うアダム、曲を作るアダムがいてこそ「私たちの普段の生活」なのだから。すべてのアダムが永遠に消えてしまった。

カレッジを卒業して何年も経ってから、アダムが私のアパートに来て、一緒に音楽を作るためのブレインストーミングをしていた。「何について?」「どんなスタイルで?」 このとき、私は(スティーヴン・)ソンドハイムのミュージカル『カンパニー』をかけた。



このミュージカルのブロードウェイ用サウンドトラック制作を迫ったドキュメンタリーを悩ましい顔で観ているアダムを見て、私は彼が70年代初頭のソンドハイムに似ていると思ったのだ。もちろん、アダムはソンドハイムより10歳若かったが。このとき、アダムはチューニングの狂ったハーフサイズのギターを手に持ち、まずはスカ、次にサンバ、そしてエモ、最後にバロック風の「Being Alive(原題)」をプレイした。そして「急いで一つ選べ。明日開幕するぞ」と言った。

アダムが「プロとして」行なった最初の演劇仕事は、私がジョン・レグイザモと一緒に作ったスケッチ・コメディ・ショーで舞台音楽を作り、サウンドブースを管理することだった。会場は一番街にあるダウンタウンで伝説的なパフォーマンススペースのPS122。何よりも楽しかったのは、60cm×120cmの狭いサウンドブース内で、アダムとスティーヴ・ゴールドが効果音や音楽のタイミングがズレることを口論しているのを聞くことだった。これは演者のアドリブが原因だったのだが、二人の口論の方が自分が作った舞台よりも楽しかったのを覚えている。ブース内のアダムに目をやるとキューが遅れて怒るアダムが見え、彼はイライラし、取り乱していた。この建物の中で一番才能に恵まれた男が、マドンナの「ヴォーグ」をシンセで即興演奏しながら、スピーディー・ゴンザレスの「Arriba, Arriba, Andale, Andale」(訳註:スペイン語で「行け、行け、頑張れ、頑張れ」の意)が出てくるボタンを押して、建物中にこれを響かせていると考えるだけで、自分が果報者だと思ったものだ。

このスケッチ・コメディ・ショーはシリーズ化され、ついにはテレビ番組『House of Buggin’(原題)』へと進化し、ここからテレビ番組と映画作品のコンポーザーとしてのアダムのキャリアが始まったのである。彼を見出したことを誰かに評価してもらいたい気持ちもあるが、そんな自分の職業に伴うちっぽけなプライドよりも、彼から得たセンセーションの方が遥かに大きい。言うなら、森の中を一人でハイキングしていて、美しい日の出に遭遇する機会に恵まれたとする。この日の出を自分が起こしたなどと考える人は一人もいないだろう。逆に偶然その場にその時に居合わせたことを幸運に感じるはずだ。何年も前にオースティン・ペンドルトンと交わした会話を今思い出している。フィリップ・シーモア・ホフマンをプロ作品で起用したのはオースティンが最初だと言った私の言葉に端を発した会話で、オースティンは笑いながら「デヴィッド、(自分よりも先に)見る目のあるやつが彼の周りにいたら絶対に起用していたよ」と答えた。アダムの才能はいつだって明らかだった。アダムが成功するのは当然のことだった。

Translated by Miki Nakayama

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