漂泊の詩人、下田逸郎の魅力をプロデューサー寺本幸司が語る

松山千春がカバーした「踊り子」

田家:私も当時ロングヘアーで汚れたジーンズを履いていた1人として思い出すんですが、下田さんってジーパン履いていた記憶がないんですよ。

寺本:あいつは履いていませんでしたよ、未だに履いていませんね。

田家:それはたぶんこの頃のある種の決別感があるんだろうなって思って見ていましたけど。

寺本:だから東由多加が下田に送る歌でもあったんでしょうね。

田家:東さんジーパン履いていましたもんね。続いて4曲目、下田逸郎さんの1974年のシングル「踊り子」。あ、これ知ってる! と思われた方もたくさんいらっしゃるでしょう。松山千春さんがカバーしていることでも有名です。

・下田逸郎「踊り子」


寺本:いろいろな方にカバーしていただいている曲なんですけど、僕はこの下田の歌っている感じがすごく好きですね。オリジナルはこれに尽きるっていう感じです。

田家:あまりベタベタしてないんですもんね。この曲はポリドールから発売になっているんですよね。さっきの『遺言歌~誰にも知られずに消えるしかないさ』はフィリップスレコード、デイレクターがあの有名な本城和治さんということで。レコード会社のスタッフも寺本さんがアドバイスされたり?

寺本:いや、どちらかというと彼が見つけてくるんですね。これも旅と同じなんですけど。

田家:で、メジャーデビューしたアルバムが『飛べない鳥、飛ばない鳥』。このアルバムが当時のシンガー・ソングライターの中ではかなり違うイメージがありました。

寺本:アメリカから帰ってくる時にヴィッキー・スーとアレックスの3人で帰ってきて。僕はニューヨークに行く前と帰ってきた下田を知っているので。次はこういうスタンスで挑むんだって思った記憶はありますね。

田家:全然テイスト違いますもんね。

寺本:その空気感がニューヨークだなっていう感じはしましたね。

田家:そのあとにポリドールから『銀の魚』っていうアルバムも出ているんですけど、これは全編の作詞が安井かずみさん。

寺本:安井が19歳で”ハマのズー”って呼ばれている時に、遊び仲間の中で”横浜のズー”知らないの? っていうような頃から僕は彼女を知っていまして。そこからデビューしていく段階もずっと見ていたんですよね。ヒット曲を出す様を見ていて。その間も一緒に仕事したいなって思っていて、ズーという詩人と下田という音楽家と組ませてみたいって気持ちが入ったアルバムですよね。

田家:「踊り子」と『銀の魚』でやろうとしていることは違いますよね。

寺本:ジャケットも下田と一緒にお願いして、合田佐和子という方に描いてもらいまして。『銀の魚』のジャケットのネックレスを描いてもらってね。そういう意味でも気合の入ったアルバムです。

田家:「踊り子」でもヒットしてメジャーな匂いもついて。でもアーティストとしては違うところに行くっていう、下田さんを他のアーティストとは違う方向に持っていこうとしたのがこの時期?

寺本:究極はやっぱり、彼の中にあるラブソングだと思うんですよ。ラブソングの帝王とか言われましたけど。そのラブソングの中に愛の極限、限界というものを彼は見事に描くような作家になっていったと思いますね。

田家:その突破口になった作品がこれと言ってもいいかもしれません。千春さんのカバーについてはどう思われてましたか?

寺本:下田みたいにどこか閉ざされた世界で窓を開ける感じじゃなくて、彼の声と歌には始めから広いものが見えますね。それは曲の解釈として、すごくスケールの大きな曲になったなっていう風に感じました。

田家:スケールが大きくて健康的な曲になったという感じでしたね。

寺本:そうですね。それがいいとこですね。この歌には青空が見えますもんね。

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