1960年代のアメリカン・ポップスのリズムに微かなラテンの残り香、鳥居真道が徹底研究

ハバネラ誕生までの経緯をかいつまんで追っていきましょう。18世紀のフランス、マリー・アントワネットの時代にイングランドの上流階級の間で流行していた「カントリーダンス」と呼ばれる田舎風ダンスが「ントラダンサ」として貴族たちのブームとなります。当時、フランスの植民地であったカリブ海のハイチ(当時はサン=ドマング)に暮らす支配階級も本国の貴族同様にントラダンサを嗜みました。やがてハイチでは呑気に踊っている場合ではない状況がやってきます。1789年にフランスで起きた革命に刺激を受けて、黒人たちが1791年に蜂起したのです。反乱は成功し1804年にハイチは独立を果たします。革命の混乱を逃れて避難民が向かったのはカリブ海の対岸、スペイン領キューバ東部でした。避難民はキューバにントラダンサをもたらします。ントラダンサはキューバにおいて「ントラダンサ」として親しまれました。1803年にはハバナ初のントラダンサである『サン・パスクァール・バイローン』が出版されます。ントラダンサは次第に「ダンサ」と略して呼ばれるようになりました。そのダンサに黒人的なリズムの要素が加わりハバネラというリズムが生まれたそうです。1836年には作者不詳の『La Pimienta』というハバネラの作品が出版されています。

ハバナで数年間暮らしたスペイン人の作曲家セバスティアン・イラディエルはスペインに帰国したのち、1840年に「エル・アレグリート」というハバネラスタイルの曲を発表します。この曲を民族音楽だと勘違いしたフランス人作曲家のビゼーが自作に引用してしまいます。これが『カルメン』の「ハバネラ」または「恋は野の鳥」です。CMなどでよく使用される曲なので聴いたことがある方も多いかと思います。低音部のラインがまさにハバネラのリズムです。『カルメン』の初演は1875年。一方、イラディエルは1877年に「ラ・パローマ」というハバネラも書いており、こちらは人気に火がついてスペイン国外にも広まりました。「ラ・パローマ」こそが世界的にヒットしたポピュラーソングの第一号ではないかと言われることもあります。

ハバネラのリズムはやはりアメリカにも伝わります。ニューオーリンズ生まれのジャズ初期のピアニストで作曲家のジェリー・ロール・モートンはラテン的な要素を自作に取り入れて、それを「スパニッシュ・ティンジ(スペイン風味)」と呼びました。例えば「New Orleans Blues」ではピアノの左手のパターンにハバネラから3個めの音符を抜いた「トレシージョ」と呼ばれるリズムが使われています。8等分したピザを3人で分けることになり、2人は3枚食べられたけど、1人は2枚しか食べられなかった。そんなリズムがトレシージョです。つまり2拍子を8等分して16分音符を「3-3-2」というようにグルーピングしたものだと考えてください。無理やりカタカナで表すと「カッッカッッカッ」となります。3-2クラーベの前半部分と言ったほうが話が早いかもしれません。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE