女性シンガー・ソングライターの先駆者、りりィの軌跡をプロデューサー寺本幸司が語る

「わたしは泣いています」の制作舞台裏

田家:この「心が痛い」が出て、その後「わたしは泣いています」がリリースされて、いきなり状況が変わっていくわけですね。

寺本:土曜日か日曜日の夜中にりりィから「変な曲ができちゃった」っていう電話があったんですよ。聴きに来てくれって言うわけでもないけど、タクシーで行って聴かせてもらったら最後まで全部歌っていたんです。びっくりしましたね、今までのと全然違うし、職業的な勘かもしれないけど「これは絶対売れるぞ」っていう感覚になりましたね。明日録音しようっていう話になって僕はタクシーで先に帰ったんですけど、その帰り道でもう口ずさんでる自分がいるわけです。全然今までの彼女の曲と違うし、どうしようかってなったんですけど、後でりりィに聞いた話だと「研ナオコちゃんに歌ってもらったらどうかな」って。

田家:提供するつもりだったと?

寺本:研ナオコとりりィがすごく仲が良かったんですよ。そんなこともあったけど、そんなことは言わずに東芝に曲を送って。そしたら「これだよ!」って話になって、次の3月の空きがあるところで出そうよって話になった。3月まで数カ月もなかったんだけど、木田高介も呼んでレコーディングする話になって。これを歌謡曲っぽくしたくないっていうのもあるし、ベース持たせてりりィに歌わせたいって話をしたいんですよ。当時スージー・クアトロっていう人がいて、りりィとイメージがオーバーラップしたんですよね。りりィも「私がベース弾くの?」っていう感じで。他の曲との混ぜ合わせもいいじゃないですか。でもね、発売した3日後に5万枚、その後に10万枚のバックオーダーが来て。ものすごく売れたんですよ。そうなるとこの曲がライブでも主役にならざるを得ないじゃないですか。僕は「心が痛い」で締めたいけど、「心が痛い」と「わたしは泣いています」でどこで繋げようっていうのがあるし、この曲やらなきゃ客も来ないしどうしようって思った記憶があります。

・りりィ「オレンジ村から春へ」

田家:続いてお聴きいただいているのは1976年の「オレンジ村から春へ」です。なんでこれをお聴きいただいているかというと、当時の資生堂の春のキャンペーンの曲でした。以前この番組でCM音楽プロデューサーの大森昭男さんの特集をした際に、70年代にタイアップ戦争というのがあったという話をご紹介しました。資生堂とカネボウがタイアップソングで張り合っていた。その口火を切ったのがこの曲だったということなんですが、この曲についても伺いたいと思っております。

寺本:大森さんがりりィに資生堂のCMソングの話を持って来てくれるなんて思ってもなかったし、今までのりりィの歌の中のトーンとは違いますけど、これは明るいりりィ、夢っぽいりりィが出てる見事な曲だと思うんですよ。それを生み出してくれたのは大森さんがいたからで、これもそれなりのセールスがありました。「わたしは泣いています」があってもこの曲があってもいいっていうステージができるようになった曲です。

田家:やはりCMの話が来た時には、戸惑いもありました?

寺本:ありましたね、基本的にアンダーグラウンドから上がって来て芽を出して花が咲いてオーバーグランドまでいくっていうのが僕のテーマですから。

田家:CMタイアップなんてなかったですもんね。

寺本:それが「わたしは泣いています」でヒットしちゃったもんだから、もうちょっと違う世界を作らないといけないっていう時にこれが来たので、やっと僕らがオーバーグランドで花を咲かせられたかなっていう風に思いました。

田家:「わたしは泣いています」でヒットしなかったら、この話も来なかったかもしれないですもんね。「わたしは泣いています」を出してこれからどうしようっていう時に、いい展開を作ってくれた曲になったと。

寺本:やっぱ「愛」とか「心が痛い」だけじゃこんな注文きませんよ(笑)。

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