浅川マキ没後10年 魂の歌に寄り添い続けたプロデューサーの告白

浅川マキと寺山修司

田家:マキさんと寺山さんは馬があったというのも変ですけれど、良いコミュニケーションがあったのですか?

寺本:馬が合わなかったですね。基本的には、合わなかったと思う。ただですね、呼び捨てにしますけれど、寺山修司と浅川マキが一番深いところで結びついたのは、浅川マキが金沢の方から3回家出をしているんですね。2回はお母さんから引き戻されて、3回目はお母さんもあきらめ、妹は暗いプラットフォームから手を振って見送り、それで東京に行くんですね。その話をした時に寺山の目が本当に輝いたんですよ。それで寺山に構成・演出を頼む前に、一回頼んだんですよ。「毛皮のマリー」の後かな。新宿厚生年金会館で『新宿千夜一夜物語』と言う劇があったんですが。それに浅川マキをワンシーン出してくれたんですよ。

田家:そうだったんですか。

寺本:ほんの一言ですけど、舞台の正面に立ってそのセリフを言うんですけれど、芝居が終わってから、寺山さんから「マキの立ち姿とセリフの間の上手さは絶妙だったよ」と僕とマキの前で言ってくれたんですよ。それが僕たちにとって力になりましたね。その後のマキの使う間というのは全て寺山さんから会得した気がします。

田家:お聞きいただいたのは、浅川マキさん1970年の楽曲「かもめ」でした。

・浅川マキ「赤い橋」


田家:72年のアルバム『MAKI LIVE』から「赤い橋」をお聴きいただいております。

寺本:この「赤い橋」がですね、僕の中で浅川マキに対して単なる歌手としての表現者ではなくて、自分はこういう歌を歌いたいからこういう歌を作ってくれというのが彼女の中で突然芽生えるきっかけになった曲なんですよ。TBSの北山修の番組に出た時に、終わってから「北山さん、私に曲作ってくれない」って頼んでいて。その会話を僕は覚えているんですね。だから、後年彼女はセルフプロデュースしていくんですけれど、浅川マキの中のある種プロデューサー的な芽生になった曲だと思います。

田家:マキさんはアングラっていう意識はあったんですかね?

寺本:意識しない訳にはいかないですよね。アングラっていうキャッチコピーをつけられるのは嫌っていましたけどね。ただ、アンダーグラウンドっていうのは彼女の体の中にあるものだし。寺山さんといてそれが余計それが目覚めてきたというのもありまして。逆にいうと、それがあって死ぬまでアンダーグラウンドにいたいという意識になったような気がしますね。

田家:それは自分がそこにいなければいけないんだ、という果たすべき何かでもあったのでしょうか?

寺本:そうですね。いなきゃいけないっていうよりも、そこから見る世界もいいし、という意味ではアンダーグラウンドっていう言葉よりも、浅川マキに元々あったものが芽生えたものだったと、僕はそう思いますね。

田家:なるほど。寺本さんはプロデューサーとしてオーバーグラウンドに持っていきたいとか、もっと光を当てたいというのはあったのでしょうか?

寺本:僕は、アンダーグラウンドからオーバーグラウンドに行った歌手が一番強いと思うんですよ。アンダーグラウンドで肩をすり合わせるみたいな、そういうのは嫌でしたから。その意識はありました。

田家:2人ともアンダーグラウンドでいいやっていう考えだったら、このような存在感は出なかったかもしれないですね。

寺本:そう思いたいですね(笑)。

田家:この曲は、山木幸三郎さんが詞をつけていると。いつ聴いても泣きたくなる曲っていうのは何曲かあるんですが、これはそんな1曲ですね。お聴きいただいたのは、72年のアルバム『MAKI LIVE』から「赤い橋」でした。

・浅川マキ「それはスポットライトではない」


田家:流れているのは、寺本さんが5曲目に選ばれた「それはスポットライトではない」です。1976年のアルバム『灯ともし頃』の曲。ロッド・スチュワートのカバーでもあります。この『灯ともし頃』のバックメンバーもすごいメンバーですよね。来週の特集アーティスト・りりィのバックバンド、バイバイ・セッションバンドとも重なるところがあります。つのだひろさんから、坂本龍一さんや吉田健さんも参加されていて。

寺本:この後から彼女がどんどんフリージャズの人と組むようになるんですけど、この辺りまではりりィもデビューさせたことだしと、僕の中ではつながっているところもある時期なんですね。

田家:なるほど。色々な場所でライブをやられていたと思うのですが、ライブを行う場所についてマキさんのこだわりはありましたか?

寺本:それは、アンダーグラウンドシアター・蠍座もそうだったんですが、も歌を歌うために作ったものではないし、前衛的な芝居だったり映画をやったりっていうところでやっていた。だから、浅川マキはコンサートホールのような固まった世界ではなくて全く違う世界で、かつ開演が10時で終電までやるみたいな。その当時はライブハウスはまだそんなにありませんでしたけど、いわゆる通常のコンサートホールとか、そういうところよりは映画館だったり、学園祭では彼女が希望して野外でやりたいみたいなこともありました。彼女は、その場所についてはこだわりましたね。

田家:このアルバム『灯ともし頃』は、西荻窪の「アケタの店」で録音されていましたものね。

寺本:あの頃、「アケタの店」もですね。一カ月出たりするんですよ。アルバムの時は、僕の記憶では10日間ほどお店を借りまして、16chの機材を持ち込んでレコーディングをしてやりましたね。

田家:「京大西部講堂」も、マキさんにとってはお似合いの場所だと思います。もう1つ池袋にあった、「文芸坐オールナイトコンサート」。僕は、最後のオールナイトを見に行きました。目がかなり不自由になっていて。あの時は朝までいました。ああいう映画館であったり、ライブハウスとは言えないようなところでライブをやっていたと。

寺本:1番初めはですね、スクリーンの前で楽器を持って演奏するのをすごく怖がられたんですよ。スクリーン傷つけられると困るから。これは、僕と組んでるスタッフがすごく気を付けて、30分で音響も照明もパッと調整するという、テクニックを覚えさせたというのは、裏話としてありますけどね。結構難しいんですよ、映画館でやるのは(笑)。

田家:そのような名物的な場所。なかなかそういうところでやる人も少なくなってしまったなという印象です。そう思うと改めて、浅川マキさんのライブシーンでの貴重さというのも浮かんでくる訳ですが。

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