浅川マキ没後10年 魂の歌に寄り添い続けたプロデューサーの告白

浅川マキのCD(1st Album 裏ジャケ)を手にした田家秀樹(左)、寺本幸司(右)



「こんな風に過ぎて行くのなら」が生まれるまで

田家:寺本さんに曲を選んでいただいて、その理由を一言お願いしましたら、この曲ができた場面に立ち会ったと。どんな場面だったのでしょう。

寺本:一言では無理なんですけどね(笑)。1968年の12月13、14、15日に3夜連続公演を新宿のアンダーグラウンドシアター・さそり座で寺山修司構成・演出でやったんですね。それが、浅川マキの事実上のデビューで。大変な騒ぎのコンサートになったんですけど。その時、寺山さんが台本に12曲書いてらして。「かもめ」とかの名曲をです。そこから寺山さんと関係が生まれて、浅川マキの1枚目のアルバム「浅川マキの世界」は僕がプロデュースしたんですけど、半分以上は寺山さんの曲で。そこにその時に録音した曲も入っているんですよ。そうやって始まって、この『裏窓』っていうアルバムで方向性が変わる。浅川マキ自身も、自分が作った楽曲で自分の世界を作り始めて。寺山さんが作った世界からどんどん脱却してゆくっていう場面の最後のアルバムなんですね。それで『裏窓』を作った時に、一番最後にできたのがこの「こんな風に過ぎて行くのなら」という曲です。レコーディング入る前に全部の詞は完成したんですけど、最後の「きっと今夜は世界中が雨だろう」という箇所がその言葉じゃなかった。その時に外が雨でスタジオの中まで聞こえるんじゃないかというくらい激しく降っていたので、「マキさ、世界中に雨降らそうよ」って僕が言って「それ、いいわ」ってなってできた楽曲なので、僕としては思い入れのある曲。なおかつ寺山さんから脱却して、極端に言えばこれから一人で歩いてくんだよっていう思いを込めた歌としてよくできていると思います。

田家:アルバムのタイトル曲「裏窓」は、寺山さんの作詞でマキさんの作曲。今、お聞きいただいたのは彼女自身の曲でもありました。1973年のアルバム『裏窓』から「こんな風に過ぎて行くのなら」でした。

・浅川マキ「夜が明けたら」


田家:お聴きいただいているのは、浅川マキさんの「夜が明けたら」。これも作詞作曲、浅川マキさんです。69年7月に出たメジャーデビューシングル。70年9月に出た『浅川マキの世界』は寺本さんプロデュースの第1作目になるんですね。彼女は、その前に、寺本さんが作られた日本で最初と思われる自主レーベル・原盤制作会社「アビオン・レコード」の第1号アーティストとしてデビューしました。

寺本:1967年の5月、「アビオン・レコード」っていうのは日本で初めてのマイナーレーベルだったと思うんですよね。その会社をある不動産屋と組んで立ち上げましてですね、その時の曲が小林亜星作曲で、作詞が帆歩健太。そういうコンビで「東京挽歌」という曲を録りまして、僕が宣伝担当として浅川マキと全国を回ってキャンペーンしたんですよ。熱海の旅館に着いて、マキを先にお風呂に入れたんですね。それでしばらくして僕が入ったら、真っ赤な大きな指輪が落っこちていたんですよ。なんだろうと思ってマキに見せたら「あっ」って言ってそれを取って後ろ手で隠したんです。マキはいつも黒い衣装に黒い玉の指輪をしているのは知っていたけどと思って聞いてみたら、毎朝真っ黒のマスカラで塗っているみたいなんですね。その時だな、マキに表現者としての深いこだわりを感じて。それから彼女に対するものづくりの姿勢が傾きましたね。

田家:浅川マキさんの唯一の小説『幻の男たち』の中にプロデューサーという章があるんですが、そこでこんな事を書いています。「私は、ひょんなことからその会社が制作する第1号の歌手になってしまう。それまでキャバレーで黒人霊歌やゴスペルを歌っていた私が、「東京挽歌」という演歌を吹き込むことになってしまった」これが、「アビオン・レコード」のことなんですよね。でも、マキさんが「東京挽歌」を嫌がっていたという。

寺本:いや、嫌がってるも何も、東京きてから5年間、メジャーからデビューがしたかった訳ですよ。だから、これは彼女の中で大きな桧舞台なので、いいとか悪いとかよりも「あ、これ私歌うのね」っていうところから始まったような気がしますね。

田家:そういう1つの苦労話があって、このメジャーデビューシングルにつながっている訳です。

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