追悼コービー・ブライアント:NBA2年目、19歳当時の密着ルポ完全翻訳

ロサンゼルス・レイカーズの背番号8番コービー・ブライアント 1998年頃ロサンゼルスにて撮影 (Photo by Jon Soohoo/NBAE/Getty)

米現地時間1月26日、ヘリコプターの墜落事故で41歳という若さで逝去した、元NBA選手のコービー・ブライアント。ロサンゼルス・レイカーズで20年間プレイし、5度のNBA制覇を成し遂げた英雄は、高校卒業後すぐにプロ入りし「マイケル・ジョーダンの後継者」と言わしめた。コービーへの追悼の意を込め、ローリングストーン誌による1998年の記事、彼がまだNBA2年目の19歳の時の密着ルポの完全翻訳版をお届けする。

シャキール・オニールは素っ裸だったが、誰も気に留めていない様子だった。1996-97シーズンにおける、ロサンゼルス・レイカーズのホームでのプレシーズンマッチ初戦は、1億2千万ドルという巨額のフリーエージェント契約費を取りつけたシャックの調子をチェックする絶好の機会だった。にも関わらず、ポツンと立った彼の視線の先にあったのは、大勢のレポーターたちに囲まれた18歳のルーキー、コービー・ブライアントの姿だった。

ブライアントにとって、それは思い描いた通りの光景であり(素っ裸のスター選手の存在は計算外だったに違いないが)、彼はその状況を楽しんでいた。わずか数年前には中学生だった彼は、高校卒業後はNBAでプレーすることが既に決まっていた。フィラデルフィアのLower Merion High Schoolの神童はそれ以降、Southeastern Pennsylvania High Schoolのウィルト・チェンバレンが保持していたあらゆるスコア記録を(500点以上の差をつけて)塗り替え、チームを州大会優勝に導くとともに、USA Todayの年間最優秀高校生プレーヤーに選出された。また彼は契約金350万ドルでレイカーズと3年契約を交わし、スニーカーのコマーシャルに登場し、『The Tonight Show』『Rosie O’Donnell Show』等のトーク番組や、『Moesha』『Arliss』『Sister, Sister』等のシットコムにも出演した。それらはすべて、彼が大学を飛ばしてNBAでプレーし始める以前の話だ。

ロッカールームの端で、オニールは笑っていた。数分後、彼はブライアントのチームメイトたちが注目を一身に集める彼に嫉妬しているかと記者から問われていた。彼がショーボート(スタンドプレーヤーの意)というあだ名をつけたルーキーに目をやると、オニールは再び笑顔になった。「ビジネスの世界だからな」彼はそう話す。「注目ってのは金みたいなもんだ。ちゃんと全員に行き渡るようになってるさ」

記者にそう話すと、彼は人の群れをかき分けて進みながら、「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」の替え歌を口ずさみ始めた(彼はプロのシンガーでもある)。「ショーボートはチームの未来/そのマザーファッカーにボールを集めろ」。ニヤリと笑ったオニールは、自身のロッカーに向かいながら一層大きな声で歌い始めた。「ショーボートはチームの未来…」幼い頃、コービー・ブライアントの関心ごとは他の子供たちとは違っていた。正確に言えば、彼の興味は2つだけだった。それは自分がどの程度、そしてどれくらい早く有名になるかということだった。ブライアントが虐待を受けた子供たちの支援センターを訪れたいと話した時(「僕が大人になる頃には、多くのNBA選手がそういう場所を訪れるようになっていると思ってた」彼はそう話す。「あの頃こう言ったんだ、機会があれば自分も力になりたいって」)、彼は既に自分が一般市民ではなく、United Wayのコマーシャルに出演するような一流アスリートになると確信していたのだろう。

ブライアントの人生の方程式には、常に名声という要素が含まれていた。父親のジョー・「ジェリー・ビーン」・ブライアント(フィラデルフィアのセブンティシクサーズを中心に、NBAで8シーズンに渡ってプレーした)がイタリアのプロバスケットボールリーグのスター選手だったため、彼は6歳から14歳までイタリアで過ごした。「父さんはカリスマに満ちてた」ブライアントはそう話している。「試合は楽しむものだってことを、僕は父から教わったんだ」

Translated by Masaaki Yoshida

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE