故ニール・パートが辿った軌跡

1997年には愛娘を亡くす

1997年8月10日、当時19歳だった娘セレーナが、トロントの大学へ向かう長いドライブの最中に自損事故で亡くなってしまった。その5ヵ月後にセレーナの母親で、23年間パートの内縁の妻だったジャッキー・テイラーが末期がんの診断を受け、あっと言う間に亡くなった。打ちひしがれたパートは、バンドメイトに引退を考えていると告げ、一人でアメリカ国内を縦断するバイク旅行に出たが、2000年に再婚すると、2001年にラッシュに復帰した。

パートが育ったのはトロントから110キロほど郊外の町ポート・ダルフージーだった。パーマをかけ、ガウンをまとい紫のブーツを履いて市バスに乗り、寝室の壁に「神は死んだ」と殴り書きする少年だった。授業中に机でビートを刻んだために問題となったこともあった。このときに罰として教師に言われたのが、居残りして1時間机を叩くことだった。しかし、パートは喜々として「トミー」のキース・ムーンのフレーズを叩いて楽しんだのである。

パートがラッシュに加入したのは、彼らが1stアルバムのレコーディングを終えたあとで、初代ドラマー、ジョン・ラトジーの後釜としてだ。ラッシュ加入後、パートの名前が広く知られるようになったが1976年のアルバム『西暦2112年』。このアルバムのA面は未来を舞台にしたロック・オペラで、プログレ特有の演劇風の音楽に、パートのSF的視点とアイン・ランドの影響を受けたイデオロギーが組み合わされていた(のちにパートはこれを否定して、自身を「情にもろいリバタリアン」と呼んだ)。次の節目が訪れたのは1982年の楽曲「サブディヴィジョンズ」で、この曲では自分の体験談を交えた郊外の悲惨な生活を表現した。この頃、パートはローリングストーン誌に「初期のファンタジー系の楽曲は面白半分に書いたものだった。当時はまだ現実を曲に入れ込んでもいいとは思っていなかったからね。ひょんなことから『サブディヴィジョンズ』が悲惨な郊外で育った人たちの共感を得てアンセムとなったことで、自分が楽曲で一番表現したいのが人としての体験だってことに気づいたんだ」と語っていた。





Translated by Miki Nakayama

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