プログレ史上最高のドラマー、ビル・ブルーフォードが語るイエス、クリムゾンと音楽家人生

1981年、キング・クリムゾン在籍中のビル・ブルーフォード(Photo by Paul Natkin/Getty Images)


ーキング・クリムゾンへ移った時、「なんて事をしてしまったんだ」と思ったか、あるいはすぐに解放された気分だったでしょうか?

それはもちろん、天にも昇る心地で解放的な気分だったよ。ロバート・フリップが「Larks’ Tongues in Aspic, Part One」や私のお気に入りの「Part Two」を弾き始めると、私は「これこそ自分が求めていたものだ!」と思った。本当に凄かった。ゾクゾク感じた。上手く表現できないが、「なぜあのドラマーはこのバンドを辞めて、あっちのバンドへ移ろうとしているんだ?」というような感じの閉鎖的な環境にいたということだ。移籍しようという考えはあまりなかったが、とにかく自分の目が覚めたことはわかった。気分が一新できたんだ。解毒できたという表現がふさわしいかもしれない。イエスが毒だったという訳ではないが、22歳かそこらで人生の転換期を迎えたということだ。それから『Red』までの約2年間続いた。それからさらに傷つきながら経験を積み、たいていの事は上手くこなせるようになった。特にドラムテクニックは向上したと思う。



ーあなたが変化を望むなら、キング・クリムゾンのパーカッショニストだったジェイミー・ミューアのような人間とステージに立つよりも、午前3時にスタジオでクリス・スクワイアがのんびりとチューニングしているのを眺めていた方がよいということですね。

(笑)そうだな。ジェイミーは完全に……個性的な人だった。残念なことに彼がPAの山に登ろうとしている姿を捉えた映像が残っていないんだ。まず危険な行為だった。口から血を吹き出しながらステージのサンダーシートに向かって鎖を叩きつけ、ロバート・フリップに当たりそうになっていた(編註:ミューアはライブ中に口から血糊を流しながらスピーカーによじ登るパフォーマンスで有名だった)。それはサーカスであり、シュールなパフォーマンスアートでもあった。ある意味で奥の深い演劇であり、奥の深い音楽とも言える。彼のパフォーマンスは素晴らしかった。まるで自然児のようだと思ったよ。

彼は元々ドラマーではなく、割と遅くからドラムを始めた。たしか最初はトロンボーンだったと思う。肺活量が少なく吹く力が弱かったから、ドラムに転向したんだ。同時に彼は悟りを開き、たしか僧侶になるために辞めてからしばらくの間スコットランドにいたと思う。とても変わった人間だが彼の周りには何らかの力が働いていて、エネルギーに満ちた人だった。彼の磁場に近づくと髪の毛が逆立ち、何かが変わるんだ。私はその感覚が好きだった。ただ、彼は私のドラムに対してかなり無礼だった。

ーどのようにでしょうか?

ああ、彼は私がドラムで目立とうとしている奴だと考えていたようだ(笑)。その通り、彼は正しかった。ジェイミーと出会うまで私は、バンドというものはただ私を楽しませるための存在だと思っていた。私が皆で音楽を作りあげるための一員だとは考えもしなかった。典型的な自惚れ屋だった。たぶん目立つことを最優先し、テクニックに頼りすぎるドラマーだったろう。私も若かった! 若すぎた。反省している。

ーそれまでスタジオで『Close to the Edge』のレコーディングを続けていた状態から、クリムゾンのステージでの30分間のインプロビゼーションへの移行には、かなりの順応力が必要だったと思います。

そうそう、その通り。まず私はインプロビゼーションの新人研修のようなものを受けたんだ。ジェイミーの家へ行ってみると、小太鼓、小さなパーカッション、ラトル、シェイカーなどあらゆる打楽器が床中にばら撒かれていた。そして彼と私は床に置いてある楽器を手当たり次第に取って、ひたすら鳴らし続けたんだ。そしてすべてをテープレコーダーで録音した。そうやってインプロビゼーションへの恐怖心を解消できた。今ではどのようなインプロビゼーションも得意さ。例えばこの電話インタビューもね。私は常に臨機応変に対応している。次に何が起こるかわからない状況を楽しんでいるのさ。

Translated by Smokva Tokyo

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