JAGATARAと江戸アケミの音楽は、30年後の腐敗しきった日本でどのように響くのか?

JAGATARAの代表曲として、現在でもカルトな人気を保ち続けている曲の多くは、江戸アケミ復帰後の1987年に矢継ぎ早にリリースされた『裸の王様』、『ロビンソンの庭』、『ニセ予言者ども』の3枚に収録されている。演奏陣には現在も各所で活躍する優秀なミュージシャン達が集まってきていた。ヤヒロトモヒロ、村田陽一、エマーソン北村といった面々だ。ダンサー&コーラスには南流石が加わる。強靭な演奏力を誇るビッグ・バンドとなり、ダンス・ミュージックの持続性と祝祭性の中にメッセージを織り込んでいくJAGATARAの音楽表現は完成度を高めていった。だが、「何ぼのもんじゃい、音楽が」という問いから江戸アケミが解放されることはなかったのだろう。

どんなに踊り、騒ぎ、燃え尽きるような一夜を作り出しても、何も変わらない。どんなに挑発的な言葉を投げても、何も伝わっていない。朝が来れば、日本人の崖へと向かう、破滅的な行進は続いていく。

ライブでは伝え切れないもの、祝祭の中で蒸発してしまうものを録音作品として残したい。1989年、BMGビクターと契約したJAGATARAが発表した『それから』は、ひとつには江戸アケミのそんな問題意識を背景にしたトータル・アルバムだったように思われる。



『それから』の中で展開されるJAGATARAの音楽世界はそれまでよりもずっと多層的だ。バンドは充実していた。メジャーの豊穣な予算を得て、完全主義者のOTOが溢れ出るアイデアを存分に追求する環境も整っていた。多彩になったリズムとグルーヴ。ジャズやラテンの感覚も加えたアレンジ。音楽的なミクスチャーはさらに進んだが、サウンドはごった煮状態から脱する端正さも放っている。一編の映画を観るような感覚で聴き進むことができる『それから』は、JAGATARAの最高傑作と言っていい。だが、それは様々なアンビバレンツの上に成立した作品だったようにも思われる。

アルバムのピークは5曲目の「つながった世界」だろう。それは『ニセ予言者たち』に収録された「都市生活者の夜」の延長線上にある「希望」の歌だ。そこには、江戸アケミが携えていた、エコロジー的な思想が集約されている。



エコロジーという言葉はJAGATARAの猥雑な音楽に似つかわしくないように思われるかもしれないが、江戸アケミは一貫して、エコロジーを携えた表現者だった。彼にとってのそれは土や水に触れて生きるという、極めて泥臭いことだった。マーヴィン・ゲイの『ホワッツ・ゴーイング・オン』(1971年)に「Mercy Mercy Me (The Ecology)」という曲があるが、そこに聴けるワイルド・ビル・ムーアのサックスのダーティー・トーンと同じものを僕は江戸アケミのダミ声の中に感じていた。人間が自然の一部として生き続けられる未来、それを子供達に手渡すことを夢見ていたのが江戸アケミだった、というのが、僕の認識だ。

「子供たちのざわめきが街中に響き渡るその日まで」と歌った「都市生活者の夜」に続いて、「つながった世界」では江戸アケミはこう歌っている。

「やがて現われる荒廃したテクノポリスよ、君はその残骸から赤ん坊とり出すのさ、そして新たな1ページを書きとめてゆく、だから今が最高だところがって行こうぜ」

子供が生まれ、育っていけば、希望の光は消えない。一夜で終わる、刹那の歓喜を「今が最高」と江戸アケミは歌っていたのではない。続いていく夢をはぐくむために「今が最高だところがって行こうぜ」だったのだ。30年後の「荒廃したテクノポリス」に立ちすくみながら、僕はそのリフレインを噛み締める。

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