1910年代と2010年代の「年代観」とは?

Illustration by Kyle Rice



1910年代と2010年代の共通点

2020年代はどんな時代になるのかわからないが、確実にわかっているのは、2020年代はキャッチーな肩書がすでについた状態でやってくるということだ。2000年代同様、10年代にはそれがなかった。今も“ゼロ年代”とか“00世代”という名称にお目にかかるが、別の文脈でこんな名前を使う人はいない。10年前、大勢のコメンテーターが2000年代が特に名称もなく幕を閉じることや、ザ・ニューヨーカー誌のレベッカ・ミード記者の言う「10年一括りの命名体系」がないことを疑問に思った。

その役割が何であれ、年代は自分たちが過渡期に生きていることを思い出させる。時が来れば、新たな時代に取って代わられるのだと。かつて80年代、今よりもっと質の悪い大統領の政権下で、人々はいつか終わりが来ることを知っていた――たとえ地球がこの先存続するかどうかわからなくとも、我々とは無関係に暦はめくられていくのだと。

2010年代は絶えず刹那の波が押し寄せた。そういうのが時間の流れの感覚を壊すのだと、ミック・ジャガーも言うだろう。この記事を読んでいるバーで、誰でもいい、狂騒の20年代や漂流の60年代、陽気な90年代について聞いてみたまえ。恐らくその年代に生きていた人はいないだろうが、決まり文句を2~3並べることはできるだろう。1920年代? ああ、フラパーズやギャッツビー、チャールストンだろ。その後大恐慌が起きたんだよな。1930年代? バレルラインの服を着たり、リンゴを売ったり、「Brother, can you spare a dime?(兄弟10セント恵んでくれないか)」(訳注:ビング・クロスビーの曲より)とか、フランクリン・ルーズベルト、「We’d like to thank you, Herbert Hoover(ハーバート・フーヴァーに感謝)」(訳注:ミュージカル『アニー』の一曲より)。

では1910年代はどうだろう。この10年は文化の記憶の穴にすっぽり埋もれてしまっている。アメリカに衝撃を与え、モダンアートに開眼させた1913年のアーモリー・ショー(訳注:アメリカ画家・彫刻家協会による大規模な美術博覧会)に代表されるように、この年代は“モダン”であることを自負していた。セオドア・ルーズベルト大統領はマルセル・デュシャンの作品『階段を下りる裸体』を見て、卑猥だと公に批判した。エズラ・パウンドは1914年に「ヤワだった1890年代には嫌悪感と侮蔑すら抱いている」と述べ、自分の時代を擁護した。1910年の代表格といえばミナ・ロイだ。詩人にしてアーティストでフェミニストの彼女は、“新時代の女性”として新聞各紙を賑わせた。彼女自身も『Aphorisms on Futurism(原題)』でこう述べている。「現代は意識の危機にさらされている」

だが第一次世界大戦が終わり、20年代が鳴り物入りでやってくると、10年代は静かに姿を消した――ガートルード・スタインはこれを“ロストジェネレーション(失われた世代)”と呼んだ。2010年代も1910年代のようにフェードアウトするのだろうか?  “意識の危機”こそ年代の存在意義だ――過去を消化し、現在をより大きな文脈に当てはめる。2010年代が終わりを迎え、桁が上がる今、やっと2010年代の存在を意識し始めたのも合点がいく。ある意味、終焉に向かうことこそが、10年代に課せられた最も重要な役割なのかもしれない。

Translated by Akiko Kato

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