ナイトシーンのリビングレジェンドが語る今昔未来

左から吉岡加奈、佐藤俊博、臼杵杏希子(Courtesy of  WHITE NIGHT WEEK)



1989年、芝浦GOLDがオープン

吉岡:そこから10年ほど経って89年に芝浦GOLDという、今のクラブの原型と呼ばれている建物ができました。

佐藤:GOLDの時はですね、音楽シーンが変わっていていました。トゥーリアというディスコをオープンする時に、六本木のマハラジャ系のディスコが盛り上がっていて。でも、それにどうなのかなって思ったときがあって。アメリカではガラージュが盛り上がって、シカゴハウスになって、それがハウスミュージックになるんですけれども、日本でもディスコのダンスミュージックよりは、コットが時代としてもいいんじゃないかと。それでトゥーリアに海外のDJを招待したんですね。でもそこから事故があって、ハウスミュージックのためのナイトクラブということでGOLDができていくんです。

吉岡:そんな流れがあったのですね。

佐藤: GOLDを作る際には、7階建だったのですが、いわゆるダンスフロアや、カップルの店、イベントスペース、キックボクシングや格闘技を足るスペースなど、僕はいろんな人が混ざり合うのが大事だと思っているので、そんな構成のお店になりましたね。吉原もありましたね。当時はバブルの時代でしたから、まあその後すぐに終わるんですけれど、海外からも国内からもそれなりの人が注目していまして。そういう人たちの居場所はダンスフロアでは難しいですから。それまでは我々は非常に海外から学んでやっていたのが、これから日本的なものを大事にしなきゃいけないなと時代に入ってきていたというのもあります。

吉岡:臼杵さんは、当時ニューヨークにいらっしゃったんですよね?

臼杵:はい。パラダイス・ガレージには毎週通っていて、だんだんとハウスミュージックが出来上がっていった時のことはすごく覚えています。この音楽は何なんだろうと思っていて最初みんな馴染めなくて。でもラリー・レヴァンっていう天才的なDJが私たちを毎週洗脳していくんですね。それで好きになっていきまして。まさに時代が変わる時で、そのあたりからファッション系の人が増えていったんですね。お客さんも変わってきて、同時にアメリカの中でもブラックカルチャーが大きく変わる時代で。マイケル・ジョーダンであったり、スパイク・リーであったり、黒人のデザイナーの方が活躍したり、ブラックカルチャーが台頭していくんですね。それと同時にパラダイス・ガレージがとんでもなくヒットしていって。音楽全てが変わっていったんですよ。

吉岡:そんな時代に臼杵さんと佐藤さんはニューヨークで出会ったのですよね。


臼杵杏希子(Courtesy of  WHITE NIGHT WEEK )


佐藤俊博(Courtesy of  WHITE NIGHT WEEK )

臼杵:そうなんですよ。佐藤さんもニューヨークによくいらっしゃっていたみたいで。ある日、セイントっていうゲイディスコの角にある103という24時間やっているカフェがあって。そこは夜中に行くとクラブ帰りの人が集まっているような店で、そこで佐藤さんと再開を果たしまして。当時はiPhoneもFacebookも無かった時代なので、そこで会っていなかったらもう会っていないという。そのおかげで今ここに来れているのかなという(笑)。

吉岡:そこからGOLDに繋がっていくと。

佐藤:60年代からずっと続いている問題ですけれど、それまでは反戦があって音楽にはドラックとかフリーセックスとか色々なものが背景にあって。そこから80年代になって、エイズの問題であったり様々な社会的な問題にが出てきて、89年にGOLDができた時も変わらないといけない時代だったんですよね。まずドラックはやめましょうとなったときに、音楽であったり別のものでそういうことができないかなとか、様々な仕組みで作っていきました。

吉岡:私は、当時の80年代90年代には不良のかっこよさがそこにあったというイメージがあります。

佐藤:まあ不良が社会的にいいかと言われれば絶対的にダメなんですけれど、個性っていうのは非常に大事だと思っています。社会では、個性を生かせる環境が少なくなってきているのですが、個性の強い人は自己主張も強いのでみんなでそれを共有して、そこから新しい文化が産まれていくのかなと思います。

吉岡:確かにそこから生まれていった文化も多いですよね。

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