映画『ジョーカー』、この大ヒット作が目指すものは一体何なのか?

ホアキン・フェニックスの生き生きとした演技はもちろん、まだ見たことのない人には特に注目して欲しい。フェニックス演じるアーサー・フレックの表情の奥には、激しい苦痛と悲しみと狂気が潜んでいる。カチカチ音を立てる時限爆弾を抱えたような落ち着きのない演技は、彼の得意とするところだ。『ジョーカー』は、メソッド式で演技するやせ細った雄牛が暴れまくるには格好の舞台だった。さらに本作品は、厳選されたDVDコレクションなどよりもっと深みのある映画だと実感できるだろう。その実感は、フェニックスによるバリエーション豊かな演技やダイナミックな演劇風のダンス、さらに哀愁に満ちた不気味さなどに依るところも大きい。映画ファンなら、彼が過去に出演した『ビューティフル・デイ』、『ザ・マスター』、『インヒアレント・ヴァイス』、『トゥー・ラバーズ』などは既に鑑賞しているだろうが、『ジョーカー』における印象的な演技は過去のこれらの作品と並ぶと思う。

かつて賢い狂人は「なぜそんなに深刻な顔をしているんだ?」と問いかけた。2019年版の『ジョーカー』では「何がそんなにおかしいんだ?」と、より核心に迫った質問を投げかけている。スクリーンの中で燃え盛る世界と、映画館の外で今まさに炎上しようとしている世界とを結びつけようとしているのだ。「もはや誰も礼儀をわきまえなくなった!」とフレックは嘆き、虚しい暴力に走った。『ジョーカー』には、今の社会情勢というものを考えさせられる。精神の不安定さと銃規制の問題、行き届かない社会福祉、気楽な富裕層と怒れる貧困層、互いに言い合うだけで相手の言うことを聞かない人々など、現実世界で起きている状況と重なる。「俺の方がおかしいのか、それとも世間はもっと酷いのか?」という冒頭の質問に対する答えは、「本当に世間がだんだん酷くなっている」ということだ。

「なぜ?」と空騒ぎの後に自問したところで、決して答えは出ない。本作品がなぜ、このレンズ、このキャラクター、1970年代の映画風の帽子をとった挨拶を通してストーリーを展開しなければならないのか? それは、ジョーカーが世界的なブランドであり、大ヒットが約束されたジャンルだからだ。また気骨があり尖っているだけでも、それほど格好良さそうに見えない。さらに本作品は、意見を持たず多勢に従うだけの人々を目覚めさせる清涼剤のようでもある。ジョーカーというヴィランを、トランプ時代の自動車事故を調査するためのシンボルとして利用した方が、ただ彼を笑いのネタとして引き合いに出すよりも効果的だ。ただ、巧妙に施されたメイクの下には、かつてのサイコ的なピエロの顔が残っているかどうかはどことなく疑問だ。『ジョーカー』は、地獄へつながる道を大局的に見るように促す重要なメッセージでもあるだろう。本作品は多くの映画賞を獲得するかもしれないが、ジョークを深刻に受け止めようとすればするほど、それが本当に自分に降り掛かってくるのではないかという考えは拭い去れない。

Translated by Smokva Tokyo

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