マキタスポーツが語る、「音楽」と「お笑い」を融合させた芸への道

その後も試行錯誤の連続だった。漫才コンビを組んで吉本の劇場に出入りしていた時期もあった。また、仲間の芸人らを集めて笑いのインディーズ事務所を作ったりもした。しかし2年ほどで解体、フリーランスに。この頃、浅草キッドの水道橋博士からは非常に高く評価され、彼をして「才能が渋滞している」とまで言わしめたが、その才能が走り出すのはまだまだ先のことだった。

「31歳で結婚したとき、博士の口利きでオフィス北野と契約しました。ちょうどその前後に『マキタ学級』というスリーピース・バンドを始めるんですよ。周囲からは『これから家族を養っていかなきゃってときに一体何やってんだ?』と呆れられたのですが(笑)、ようやく『音楽』と『お笑い』を融合させる明確なヴィジョンが見えてきたんですよね。少し前からやり始めていたオトネタを、バンドという形式でやり始めたのもこの頃です」

サンボマスターや銀杏BOYZ、清水ミチコら錚々たる面々を迎えた大規模なイベント『マキタ学級大文化祭』を開催したり、自主制作で作ったCDを地方のツアーで売ったりと、精力的な活動を開始したマキタスポーツ 。快調な滑り出しのように見えたが、昼夜問わずバンド活動に明け暮れているうちに、メンバーは疲弊しモチベーションも徐々に低下していった。にも関わらずイベントの規模は大きくなる一方で、しかも赤字が続くという本末転倒の状態に陥っていたという。


Photo = Mitsuru Nishimura

「このままじゃいけない」と思い、マキタ学級を一旦休止したマキタスポーツは、自分が広告塔となって今までの活動内容を「ピン芸人」として続けることを決意した。2008年のことだ。

 そこからは一気に知名度が上がり、『R-1ぐらんぷり2011』で準決勝進出。翌年にはTBSテレビ『中居正広の金曜日のスマたちへ』に「音楽研究家」として出演し、過去30年間のヒット曲から「ヒット曲の法則」を分析。その法則に則って制作した「十年目のプロポーズ」を発表すると大きな話題となった。また、この頃から俳優として映画やドラマにも出演しており、冒頭で述べたように映画『苦役列車』での演技が高く評価される。『歌ネタ王決定戦2013』では、ついに決勝進出を果たした。

Photo = Mitsuru Nishimura

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