The 1975が惚れ込んだ22歳、ノー・ロームが語る「憧れの日本」と「アジア人の挑戦」

ノー・ローム(Courtesy of Hostess Entertainment)

The1975の秘蔵っ子として知られる1997年生まれの俊英、ノー・ロームことGuendoline Rome Viray Gomezを東京で取材。聞き手は編集者/ライターの矢島由佳子。

2019年の夏を振り返ったとき、最もセンセーショナルな瞬間はサマーソニックにおけるThe 1975のライブだった。今の社会や政治に対する不満と怒り、未来に対する不安、自分自身に対する不甲斐なさ、それでもやっぱり愛を持って生きたいという願い――私はThe 1975のメンバーと同世代であるが、今の自分が日常的に抱いていながら、でも誰かに語るわけではない心の奥の感情たちを、彼らは美しい音楽とライブの中で爆発させていて、それが大きな興奮と安堵をもたらしてくれた。「彼らが同じ時代に生きてくれていれば、大丈夫」という、ロックヒーローが与えてくれる無根拠なロマンというものを、ティーンエイジャーをとっくに過ぎた自分が久しぶりに抱くことのできたバンドが、The 1975だったのだ。

会場でもSNS上でもライブは絶賛の嵐だったことや、マシュー・ヒーリーがRolling Stone Japanに語ってくれたことは既発の記事に譲るとして、ここでは、そんなThe 1975が惚れ込み、ともに曲を作り、ツアーのオープングアクトとして世界中を連れ回っている「ノー・ローム(No Rome)」を紹介したい。この対面インタビューを通じて、The 1975とノー・ロームを結びつけた表現・創作に対する思想、世界の音楽マーケットにおけるアジア人アーティストの立ち位置、そして日本人が気づいていない日本のアートの魅力などを、新たに発見させてもらえることとなった。


The 1975とノー・ロームを結びつけた思想

フィリピン・マニラ出身、現在22歳のノー・ローム。約3年前、The 1975のマシューが彼の音楽を耳にしたことをきっかけに、ノー・ロームはロンドンに呼び出され、The 1975らが所属するレーベル「Dirty Hit」と契約を交わすことに。Beats 1のインタビューで、マシューは次のように語っている。

「僕のベイビー。この子は本当にすごいんだ。完全に恋に落ちたよ。彼とは一度も会ったことなかったし、彼が誰なのかとか、なにも知らなかったけど、とりあえずイギリスまで飛んでこいって呼んだんだ。もともと彼はマニラに住んでたけど、今は僕と一緒に住んでる。自分が興奮したときにはどうすればいいかわかってるからね。彼をロンドンまで呼んで、Dirty Hitと契約してもらったんだ」

2018年8月には、The 1975のマシューとジョージ・ダニエルが共同プロデュースを手がけたデビューEP『RIP Indo Hisashi』をDirty Hitよりリリースした。3曲目「Narcissist」はNo Rome ft. The 1975名義で発表されており、マシューがミュージックビデオに出演もしている(さらにいうと、The 1975「TOOTIMETOOTIMETOOTIME」のビデオにはノー・ロームがゲスト出演している)。




―そもそも、The 1975はあなたのことをどうやって見つけたんですか?

ノー・ローム:The 1975も手がけている、Samuel Burgess-Johnsonというグラフィックデザイナーがいるんだけど、もともと僕は彼の大ファンだったんだ。実は、The 1975の音楽よりも彼の作品のほうがよく親しんでいたくらい。もちろんThe 1975の音楽も知ってたし、いい音楽だとも思ってたけどね。当時Johnsonとマッティ(マシュー・ヒーリー)は一緒に住んでいたらしくて、Johnsonが僕の音楽を流したときに、Mattyの耳にも入ったみたい。そのときに「ノー・ロームと一緒になにかやるべきだよ!」という話をしてくれたそうなんだ。

―そのあとマッティからメールが届いたそうですが、いきなりロンドンに呼ばれて、躊躇する気持ちはなかったですか? ロンドンに行こうと決めた背景には、どういった想いがあったからだと言えますか。

ノー・ローム:もともとイギリスのアーティストの音楽をよく聴いていたしね。ロンドンに移住しようと決めた一番の理由は、ロンドンの文化が大好きになったから。いろんな人が集まっている場所だから、外から入っていっても「自分はアウトサイダーだ」なんて気持ちは一切湧かなかった。だって、左を向けばアジア人がいて、右を向けばまた違う人種の人がいる、という場所だから。フィリピン以外で音楽を作るのであれば、ここだなってすぐに思った。Dirty Hitが契約してくれたから、というのは2番目の理由だね。一番はやっぱり、ここだったら自分らしく音楽を作れると思ったから。母国だとそれができないというわけではないけど、イギリスだと刺激やインスピレーションも多いし。自分が慣れてないところや知らないところへ行くのはいつだって大変なことだけど、刺激的だからね。

―マッティやジョージと一緒に作った1st EP『RIP Indo Hisashi』は、日本の画家・因藤壽(2009年逝去)に捧げたものですね。記念すべきデビューEPに、因藤壽への想いを乗せたのはなぜ?

ノー・ローム:このEPを「因藤壽」と名付けた本当の理由を教えてあげようか? 実はMattyが因藤壽の作品を買ったときに、僕から「RIP Indo Hisashi」ってテキストメッセージを送ったんだ。その瞬間に、「これはいけてる名前だな! これまで思いついたタイトルの中で最高だ!」と思ったんだよね。

―どういうところが「最高だ!」と思ったのでしょう?

ノー・ローム:因藤壽というアーティストは、ずっと、1枚のキャンバスに同じ色を塗り続けていた。2カ月間、毎日だよ。そうするとキャンバスに形が浮き上がってきて、それを彼は作品にしていたんだ。ただ、塗り続けることで浮き上がってくる形というのは、細かいところにまで目を配らないと見えない。そういった作り方は、僕がEPでやったことと同じだと思ったんだ。僕が歌ってること、シンセサイザーの音、ドラムパターン、そういった曲に施している特別な部分って、きっと気をつけて聴かないとわからない。でも僕は、そういうところにたくさん気を配りながら、2カ月かけて同じ曲を作り続けていたんだ。そうすることで、「これだ!」というものが現れてきて、曲をして完成させることができるんだよね。



―マッティは前から因藤壽のことを知っていたんですか? それとも、あなたが教えた?

ノー・ローム:前から知ってたんだと思うよ。コンテンポラリーアートが大好きだという話をしたときに、2人ですごく盛り上がったんだよね。コンテンポラリーアートのことを一緒に話せて、感覚を共有できたことが、仲良くなったきっかけのひとつでもあると思う。

―そうやってスタジオワークやツアーをともにすることで、The 1975から学んだことは?

ノー・ローム:たくさんあるよ。僕はまだ新人だけど彼らはすごく経験豊富だから、「音楽業界とはこういうものだ」ということも教えてくれた。言葉で説明するのは難しいんだけど……だって「勉強した」という感じではなくて、一緒にスタジオで遊びながら音楽を作った、という感じだからね! そもそも、Mattyはいつも素晴らしいアイデアを持っている。彼はアイデアがなくならないんだ。ジョージも、びっくりするくらい素晴らしいプロデューサーだよ。ジョージからは、曲の作り方を学んだね。僕が作った曲をジョージがアップグレードしてくれたんだけど、それを聴くのがすごく楽しかった。たとえば最後のリバーブの微調整だとか、僕にしかわからないような細かい音のことだったりするんだけど、それがすごく有難かった。リスナーは誰も気づかないようなことかもしれないけど、僕にとってはそこが大好きなパートだったりするんだ。

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