マンソン・ファミリーによる殺人事件、50年を経て明らかになった新事実

まずは隠蔽工作について見ていこう。400ページを超えるオニールの著書には複数の例が示されているが、中でもローリングストーン誌とのインタヴューではいくつか注目すべき事例が挙げられている。例えば逮捕後に事件解決の糸口を作ったスーザン・アトキンス。彼女は同房者に対し、自分は友人たちと共にシャロン・テートとラビアンカ夫妻の殺人に関わったと自慢し始めた。その話を聞いた同房者が直ちに当局へ告発したことが、事件解決の大きな突破口となった。担当検事だったブリオシはついに重要な容疑者を得たのだ。彼女は既に勾留中の身だったが、ブリオシはより確実な策を取ることにした。

「スーザン・アトキンスには既に裁判所が任命した弁護士が付いていた。ところが彼女が事件の最も重要な証人であると検察側が認識すると、アトキンスを検察側に協力させるため、元検事の中から選んだ弁護人と入れ替えようとした」とオニールは説明する。1969年11月26日、マリオ・クリンコ判事の前で行われた罪状認否の際、アトキンスの担当弁護士がディック・キャバレロに変更された。地方検事局に8年間勤務したキャバレロは、検察側が必要とするアトキンスの証言を得る手助けをしたのだ。

「アトキンスの証言は、検察側の有利になるように書き換えられた。結果、起訴して有罪判決に持ち込み、世間の注目を浴びることとなった」とオニールは書いている。彼女の証言内容はロサンゼルス・タイムズ紙に掲載され、さらにペーパーバックとして出版された。アトキンスの最初の弁護士だったジェラルド・コンドンは、オニールの取材に対し、解任理由もわからず戸惑ったと証言している。しかしコンドンは、妻からの勧めにより交替を決めたという。「裁判全体が信頼の置けるものではないと思う」とオニールは指摘する。「検察が弁護側に(元)検事を送り込み、工作を行ったのだ。」

また敏腕レコードプロデューサーで、女優ドリス・デイの息子であるテリー・メルチャーの場合はどうだろうか。彼はガールフレンドのキャンディス・バーゲンと共にシエロ・ドライブ10050番地にある邸宅に住んでいたが、1968年12月、マリブにある母親の所有する家のひとつへの引っ越しを決めた。公式の記録によれば、メルチャーとマンソンは幾度となく公の場で会っていたという。ザ・ビーチ・ボーイズのドラマーだったデニス・ウィルソンはマンソンと親しい関係にあり、ホームパーティーやサンセットストリップのクラブへ一緒に繰り出していた。メルチャーはロサンゼルスの有力プロデューサーのひとりだったため、マンソンも彼の名声をよく知っていた。マンソンはメルチャーがプロデューサーとして自分のビッグヒットを後押ししてくれると確信し、スパーン・ランチでの自分の演奏を無理やり観に来させた。しかしマンソンの音楽に興味を惹かれなかったメルチャーは、すぐにその場を立ち去った。1969年5月のことで、メルチャーの裁判証言によると、2人が会ったのはそれが最後だったとされる。

ところが『Chaos』によれば、2人の関係はその後も続いていたという。著者のオニールは、メルチャーとマンソンが殺人事件後も連絡を取り合っていたという全く異なる事実を裏付ける、警察による2種類の捜査資料を入手できた。ひとつはスパーン・ランチにも出入りしていたバイカー集団ストレート・サタンズのメンバーだったダニー・デカーロによる証言で、もうひとつは一時期マンソン・ファミリーの一員でもあったポール・ワトキンスへの調書だ。オニールが発掘した2つの警察資料によると、ファミリーが居住したスパーン・ランチとモヤーヴェ砂漠にあったファミリーのもうひとつの拠点バーカー・ランチをメルチャーが訪れていた、と2人は証言している。デカーロは殺人事件の数週間後、メルチャーがマンソンの前にひざまづいて許しを請う姿を目撃したという。

2000年、オニールは、サンタモニカにあったメルチャーの家のペントハウスで、メルチャーの証言の矛盾を問い詰めた。するとメルチャーは公式記録の内容を繰り返し、1969年に何があったかはブリオシに聞いてくれと言ったという。そのメルチャーは、2004年に亡くなっている。

サンプル
マンソン・ファミリーの殺人犯らを起訴したヴィンセント・ブリオシ。マンソンとは誕生日がわずか3ヶ月しか違わなかった。

Translated by Smokva Tokyo

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