ザ・カーズからプロデュース業まで リック・オケイセックの生涯とロック史への貢献

ザ・カーズのリック・オケイセック(Photo by Lynn Goldsmith/Corbis/VCG via Getty Images)



ウィーザーを手がけて花開いた“職人”としての素顔

ここで遂にソロ契約を失ったリックだったが、絶妙なタイミングで無名の新人、ウィーザーのデビュー・アルバムをプロデュースすることに。楽曲の魅力に着目し、バンドのポテンシャルを最大限引き出した通称『ザ・ブルー・アルバム』(1994年)が大反響を呼び、プロデュースしたリックも久々にスポットライトを浴びることとなった。本作でのリックの金星は、収録候補から外されかけていた「バディ・ホリー」をアルバムに入れるよう、作者のリヴァース・クオモを執拗に説得したことだろう。この名曲は危うく闇に消えてしまうところだったのだ。


この頃、リックはマドンナが立ち上げたマヴェリック・レコードでA&R兼プロデューサーとして仕事をしていた。1983年に『Rock For Right』を手掛けたことがあるバッド・ブレインズを、ここぞとばかりにマヴェリックへ引っ張って来て、自身のプロデュースで『God Of Love』(1995年)をリリースさせている。アーティストとプロデューサーというのは一期一会の関係になりがちだが、リックは一度関わったアーティストと密な関係を築くタイプだった。



ナダ・サーフのフロントマン、マシュー・カーズは、リックの死を悼んでNPRでエッセイを公開。まったく無名だった頃にバンドをデビューへと導いてくれたリックとの個人的なエピソードを語っている。

ここでマシューが回想している、「ライブ会場でリックにデモ・テープを渡したら、ちゃんと聴いてから連絡をくれた」「これをきちんと録り直してリリースしたいなら少額のギャラでプロデュースしてあげよう、と申し出てくれた」という話は、自分もマシューに取材した際、本人から詳しく聞いたことがある。マシューは何も、亡くなったリックを美化しようとして、大袈裟に盛って話しているわけではないのだ。リックは彼らが契約先を選ぶ際にも、すぐにエレクトラに決めないで他社と接触するようアドバイス、オーディションのお膳立てまでしている。

金になる/ならない、という打算で動く人がほとんどの音楽業界で、まったく無名のニュー・カマーに対してここまで献身的に接したのは、リック自身も若い頃に辛酸を舐めた経験があるからだろう。それと同時に、優れたアーティストを見逃さないリックの“目利き”を、その後のナダ・サーフの活動が証明している、とも思うのだ。








そのナダ・サーフのデビュー・アルバム『High / Low』(1996年)も例外ではないが、リックにプロデュースを依頼するバンドのほとんどは、ウィーザーとの仕事が念頭にあったはず。バッド・レリジョン史上最もパワー・ポップ寄りに振り切って物議を醸した『The Gray Race』(1996年)にせよ、ガイデッド・バイ・ヴォイセズの『Do The Collapse』(1999年)やワナダイズの『Yeah』(1999年)にせよ、モーション・シティ・サウンドトラックがポップ化を進めた『Even If It Kills Me』(2007年)にせよ、リックに求めた“効果”はほぼ同じだろう。生々しいバンド・サウンドとキャッチーなメロディの両立を実現させる職人として、リックは期待にきっちり応え続けた。ウィーザーが『ザ・グリーン・アルバム』(2001年)、『エヴリシング・ウィル・ビー・オールライト・イン・ジ・エンド』(2014年)でもリックにプロデュースを依頼したポイントはそこにあるだろうし、ザ・クリブスが2015年に『フォー・オール・マイ・シスターズ』でリックと組んだ際も、この組み合わせから期待できる通りの焦点が絞れたサウンドをものにしている。

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