ライヴ・エイド出演の立役者が語る「クイーン」バンドの一員として共に歩んだ35年間

ーデキシーズでの活動は楽しかったですか?

そうは言えないな。ホーンセクション数人とベーシストは、僕と同じセッションミュージシャンだった。仲違いしたかやりたくなかったか、何かしらの理由で抜けた穴を埋めるための存在だよ。バンドには独自のエネルギーとリズム感があったけど、基本的にはリードシンガー(ケヴィン・ローランド)のワンマンバンドだった。雇われてそういうバンドに入ると、どんな時も口を閉ざして空気を読みつつ、ただ与えられた仕事をやるしかないんだ。彼は絶対服従を要求したからね、トランプみたいにさ。

ークイーンへの参加についてお聞きします。彼らは1982年のツアー時まで4ピースという形態を保っていましたが、そのツアーでは局所的に2人のキーボーディストを迎えています。その次のツアーにあなたが参加することになった経緯は?

僕の記憶が正しければ、最初のキーボーディストはモーガン・フィッシャーだったはずだ。彼はフレッドと喧嘩したんだ。ある日シャンパンのボトルを手にリムジンに乗り込んで、彼はそのまま戻って来なかった。

ー大失敗ですね。

フレッドと揉めるなんて馬鹿だと思うよ。度胸は認めるけどね。その後彼らは、アリス・クーパーと一緒にやってたFred Mandelを雇った。どういう経緯だったかは知らないけど、彼が後任になったんだ。だから僕は彼の後釜ってことになるね。モーガン・フィッシャーが参加する予定だったツアーの残りの行程は、彼が全部こなした。語り草になってる南米ツアーの後、バンドはしばらく休暇をとって、その後ミュンヘンで『ザ・ワークス』を作った。Mandelはそのレコーディングにも参加していて、「RADIO GA GA」や「ブレイク・フリー (自由への旅立ち)」にクレジットされてる。でもバンドがそのツアーに出る時、彼は手が空いてなかった。どうしても断れないギグの仕事が他にあったんだろうね。

詳しい事情は知らないけど、彼らは代役を必要としてた。僕に白羽の矢が立ったのは、偶然だったとしか言いようがないね。僕がロンドンのとあるバーで演奏してた時に、10年くらい前に知り合ったクイーンのクルーの一員が来たんだ。「こんなとこで何やってんの?」って感じで、お互いに近況報告し合った。今何をやってるんだって僕が聞くと、彼はこう言った。「ロジャー・テイラーのアシスタントをやってる。実は今、クイーンがキーボーディストを探してるんだ。興味あるかい?」僕はこう返した。「もちろんさ」

言うまでもなく、そんなケースは滅多にない。200人くらい参加するオーディションに応募して、待ちわびた電話で落選だって知らされるのが普通だからね。僕のケースは特殊だったんだ。指定された場所に行き、あのGerry Stickellsと面談した。彼はロック史に名を残す人物だよ。悲しいことに、彼は今年亡くなったんだ。

「パスポートは持ってるか?」って聞いてきた彼に、僕は持ってると答えた。「世界ツアーに出られるか?」っていう質問に、僕はイエスと答えた。すると彼はこう言った。「よし、じゃあ月曜にミュンヘンに飛んでリハーサルを始めてくれ」僕は驚いてこう答えた。「冗談だろ?彼らが僕のことを気に入らなかったらどうなるんだ?」すると彼はこう言ったんだ。「その時は翌日の飛行機で戻ってくることになる」あれから35年経った今も、こうして一緒にやってるわけだけどさ。

ー当時も現在も、バンドにおけるあなたの最大の役割は、4ピースだった頃よりもライブにおける音源の再現性を高めることだと思います。

そうだね。言うまでもなく、経験を積むごとにクオリティは上がっていった。一緒にやり始めた時、僕は前任のプレイヤーがどういう役割を担っていたのか把握してなかった。でもバッキングヴォーカルについては、ジョン(・ディーコン)は一切歌ってなかったけど、ブライアン(・メイ)は5割くらいはマイクの前に立って歌ってたし、ロジャーの歌唱力はかなりのものだった。要は2人どころか、バンドにはヴォーカリストが3人いたってことだよ。僕は「RADIO GA GA」の音源でも使われてた、ヴォコーダーっていう時代遅れの代物を使うことにした。マイクに向かって歌いながら、手元の鍵盤でそれを加工してやるんだ。そのやり方で音をある程度分厚くすることはできたけど、彼らの甘美なヴォーカルハーモニーを完全に再現できないことが歯痒かった。でも今はステージに6人いて、僕はその中で一番お粗末なシンガーだ。彼らのおかげで、今はそういうパートも再現できる。

ーフレディは血の通った人間というよりも、もはや神格化されてしまっているようにも感じます。普段の彼はどんな人物でしたか?

彼のことを誰よりもよく知っているのは、バンドのメンバー3人とジム・ビーチ、それにメアリー・オースティンだよ。彼らはフレディの親友だったし、スーパースターになる前の彼を知る数少ない人々だ。彼がどんな人だったかと問われれば、ディーヴァだったと答えるね。彼は優れたユーモアのセンスの持ち主で、警戒心が強かった。すごくシャイでもあったね。ステージではロックスターとしての資質を存分に発揮しつつ、普段は静かに過ごすことが好きだった。僕の知る限りはね。僕が加わった1984年の時点で、彼が最もワイルドだった時期はもう過ぎていたんだと思う。それに彼は超有名人だったから、気軽に外を出歩くこともできなかった。ごく一部の人間とだけ関わる、隠遁生活のような毎日だったと思うよ。僕も何度か彼の自宅でのパーティーに招かれたよ。ツアー先で彼が出歩けない時は、みんなで彼が泊まってるスイートでTrivial Pursuit(カナダのボードゲーム)をやってた。すごくロックンロールだろ?

ー彼の腕前はどうでしたか?

見事だったよ。彼はボードゲームの達人だった。一番得意なのはScrabbleで、ロジャーとはライバル同士だった。昔は大規模なScrabble大会をやってたよ。ロジャーは今でもやってるね。

ーライヴ・エイド出演の話が出たのはいつだったか覚えていますか?

覚えてるよ。クイーンのサポートを務めるようになった時、僕はボブ・ゲルドフのブームタウン・ラッツのライブにも参加してた。『ワークス』のヨーロッパツアーが終わりに近づいてた1984年のクリスマスに、バンド・エイドが出したシングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」が大ヒットした。しばらくして僕は、Rock in Rioに出ることになってたクイーンに復帰した。その後またしばらく間が空いて、僕はブームタウン・ラッツのイギリスツアーに同行した。確か1985年の3月か4月で、毎晩ショーの最後にバンド・エイドの曲を演ってた。各会場で募金を募ってたからね。

ツアーバスの車内で、隣に座ってたゲルドフが僕にこう言ったんだ。「あるコンサートを企画してるんだ。出演するのはレッド・ツェッペリン等々…」どうやって実現するつもりなんだって尋ねると、彼はこう言った。「ロンドンとアメリカで同時に開催するのさ」僕はこう言った。「絶対無理だ、いくらなんでも無謀すぎる」絶対に実現させると言って譲らなかった彼は、僕にこう言ったんだ。「クイーンに声をかけてみてくれないか?」ってね。自分でやればいいだろって僕が返すと、彼はこう言ったんだ。「電話をかけてその場で断られたら、俺きっとブチ切れちまうからさ」

結局僕が彼らに伝えることになった。ツアー先のニュージーランドで、僕はディナーの場でその話を持ち出した。「ゲルドフがとんでもないイベントをウェンブリー・スタジアムとアメリカで同時開催しようとしてるんだけど、興味あるかい?」確かジョン・ディーコンだったと思うんだけど、「なんで直接言ってこないんだ?」って訝しんでた。僕はこう返した。「君らの返事を聞けば、その場で改めて打診してくるはずさ」それで出演が決まったんだ。


Translated by Masaaki Yoshida

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