ウィーザー『ブルー・アルバム』知られざる10の真実

写真左からリヴァース・クオモ、ブライン・ベル。1994年撮影。(Photo by Karjean Levine/Getty Images)



3. レコーディングのためにニューヨークへ飛ぶ前日、バンドはロサンゼルスのリハーサルスペースで一晩中どんちゃん騒ぎをした

1992年3月19日は、ウィーザーにとって記念すべき日だ。Hollywood Boulevardで初ライブを行った(キアヌ・リーヴスのバンドであるドッグスターの前座だった)だけでなく、その日彼らは長く愛用することになるAmherst Avenueの小屋を手に入れた。クオモとシャープはロックバンドを組んでいることは伏せ、自分たちがUCLAの映像学科の学生だと偽って大家を説得し、友人のJustin Fisherと共にそこに移り住んだ。その小屋の一部はほどなくしてガレージへと姿を変え、様々な楽器や安物のレコーディング機器が共用の洗濯機とともに持ち込まれたその場所は、彼らの専用リハーサルスペースとなった。防音のつもりでボロボロの茶色のカーペットを吊るし、壁にはエディ・ヴァン・ヘイレン、エース・フレーリー、ピーター・クリス、そしてX-Menのチームなど、彼らのヒーローたちのポスターが所狭しと貼られた。その空間を称えた『ブルー・アルバム』収録曲「イン・ザ・ガレージ」で、クオモはこう歌っている。「壁には大好きなKISSのポスターが貼ってある。エース・フレーリーやピーター・クリスが、そこで僕を待ってる」

リハーサルや作曲セッション、デモのレコーディング、その他様々なイベントが行われたその窮屈な空間は、バンドにとって極めて重大な意味を持っていた。1993年8月7日、ニューヨークのエレクトリック・レディでデビューアルバムのレコーディングを翌日に控えた彼らは、そこでまたひとつ忘れられない思い出を作ることになる。「有頂天だった僕らの興奮が爆発した」Kochはそう綴っている。「言うまでもなく、そのパーティーは一晩中続いた。空港まで送ってくれることになってたDGCのDenise MacDonaldが(レーベルの取締役)Tom Zutautのレンジローバーでやってきた時、僕らは45分しか寝てなかった」MacDonaldは芝生の上で寝ていたメンバーたちを叩き起こした。彼らが飛行機に乗り遅れなかったのは、その小屋の唯一のトイレがいつの間にか粉々に破壊されていたためだった。

Amherst Avenueのリハーサルスペースへのトリビュートは「イン・ザ・ガレージ」だけではない。『ブルー・アルバム』のカバーの内側には、クワイエット・ライオットやジューダス・プリーストのポスターに挟まれた楽器の数々が映った白黒写真が掲載されている。またSophie Millerが監督を務めた1995年公開の「セイ・イット・エイント・ソー」のミュージックビデオは同スペースで撮影されており、洗濯機を使おうとするKarl Kochがカメオ出演している。ウィーザーのファンにとっては残念なことに、その建物は2005年にリノベーションされ、当時の面影はまるで残されていない。



4. B面曲「マイケル・アンド・カーリー」は、バンドのライブに向かう途中に交通事故に遭って逝去した2人のファンについての曲である

エレクトリック・レディでのレコーディング前に、リック・オケイセックは彼がよく使うニューヨークのリハーサルスタジオにウィーザーの面々を連れていった。「1週間かそこらをかけて、余分なものを削ぎ落とした」彼はLuerssenにそう語っている。「焦点の定まった簡潔なレコードにしたかったんだ」そのセッションに持ち込まれた15曲のうち、アルバムに収録されたのは10曲だった。そのうち「ララバイ・フォー・ウェイン」(「サーフ・ワックス・アメリカ」に似過ぎていた)「Getting Up and Leaving」「アイ・スウェアー・イッツ・トゥルー 」(どちらも『ピンカートン』のセッションに再び持ち込まれている)そして「イン・ザ・ガレージ」のリプライズ・バージョンの4曲は、早々にアルバムのトラックリストから除外された。もうひとつのボツ曲、「マイケル・アンド・カーリー」はエレクトリック・レディでレコーディングされたものの、『ブルー・アルバム』のリリースまで棚上げにされていた。しかし1994年の夏に行われたPaul duGreとのセッションで、同曲はシングルカットされた「アンダン~ザ・スウェター・ソング」のB面曲として再レコーディングされている。

同曲はマイケル・アランとカーリー・アランという、ウィーザーを初期から応援し続けていた正真正銘のファン2人に捧げた曲だった。「あんなにも親切でスウィートで、可笑しくてクールな人はそうはいない」Kochはその姉妹についてそう語っている。2人は1992年7月にClub Dump(後の悪名高きViper Room)でウィーザーのライブを観て以来、すっかりバンドの虜になっていた。その後アラン姉妹はバンドのメンバーたちとも親しくなり、「バンドを組んでる良き友人たち」のために様々な雑用を手伝い、「アンダン~ザ・スウェター・ソング」で使われた「パーティ会場での会話」のレコーディングにも協力した。2人はウィーザーのファンクラブの設立にも尽力し、メーリングリストの整理や郵便物の処理なども引き受けた。ファンクラブ会員番号0001と0002が与えられていた2人は、文字通りバンドの一番のファンだった。

アラン姉妹への感謝の気持ちとして、クオモは2人に曲を贈ることにした。彼は何日にも渡って2人に電話をかけ続け、2人の出身高校や自宅がある通りの名前などを聞き出したという。答えを聞くとすぐ電話を切ってしまうクオモに、2人は首を傾げていたに違いない。完成した曲は「Please Pick Up the Phone」というタイトルで、ハリウッドでのショーでお披露目された。いつものように最前列に陣取っていた2人は、感動のあまり涙を流していたという。

アラン姉妹は1997年夏に行われた『ピンカートン』ツアーにも同行し、ファンクラブの代表として誰よりも彼らのライブを楽しんでいた。しかしある日、ライブ会場に2人の姿がないことにメンバーたちは気が付いた。「2人はソルトレークでのショーに来なかった」クオモは当時MTV Newsにそう語っている。「2人の身に何かが起きたに違いないと思った。マイケルとカーリーの母親に電話をかけた僕らのマネージャーは、辛そうにこう言った。『2人は亡くなったそうだ』」7月8日の夜にデンバーで行われたコンサートの後、ソルトレーク・シティに向かっていた2人は、コロラドのライフル近くのRoute 70で交通事故に遭っていた。その事故はマイケルとカーリーだけでなく、同乗していた2人の妹トリスタの命も奪った。



悲しみに暮れたバンドのメンバーたちは、姉妹の葬式に出席するためにツアーを延期した。同年8月、バンドはロサンゼルスのPalace Theatreで行われた姉妹の追悼コンサートに参加し、その収益金は葬式費用として遺族に寄付された。当日披露された「マイケル・アンド・カーリー」は、以降15年近くに渡って封印されることになる。

Translated by Masaaki Yoshida

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