ウィーザー『ブルー・アルバム』知られざる10の真実

2. プロデューサーのリック・オケイセックに敬意を示すべく、バンドはザ・カーズの名曲をカバーした

1993年にメジャーレーベル、ゲフィンの子会社にあたるDGCと契約を交わしたウィーザーは、外部からプロデューサーは迎えず、長く慣れ親しんだロサンゼルスのソーテル地区にあるAmherst Avenueにある小屋でレコーディングするつもりだった。郊外のガレージといった趣のその小屋で、バンドは数多くのデモを録っていた。「勝手を知った場所でレコーディングするのがベストだと最初は考えてた。できる限りプレッシャーを感じずに済むようにね」ベーシストのマット・シャープは1994年11月のインタビューでそう語っている。「レコーディングはロスで、俺たちの指示通りに動くエンジニアだけ雇いつつ、作品はセルフプロデュースするつもりだった」しかしより大きな野心を抱いていたゲフィンのA&Rチームは、名の知れた人物をプロデューサーに迎えることを強く勧めた。

当初クオモはその案に消極的だったが、ふとした時にザ・カーズの『グレイテスト・ヒッツ』を手にし、フロントマンでメインのソングライターだったリック・オケイセックの才能に惚れ込むようになった。「レコード会社は外部からプロデューサーを迎えるべきだと言って譲らなかった」クオモはLuerssenにそう語っている。「プロデューサーを立てるなら、優れたソングライターじゃないと駄目だと僕らは主張した。そこで真っ先に浮かんだのが、カーズの1stアルバムだった」幸運なことに、両者は相思相愛だった。「別のプロジェクトでロスにいた時に、ゲフィンの人間から彼らのテープをもらっていたんだ」オケイセックは2014年にMagnet誌にそう語っている。「車を運転しながら聴いたんだけど、すごい才能だと思った。どんな見た目なのかは知らなかったから、優れたメロディセンスを持ったヘヴィメタルのバンドだと勝手に思い込んでた」

バッド・ブレインズ『ゴッド・オブ・ラヴ』のプロデュースのためロサンゼルスに来ていたオケイセックは、ウィーザーがリハーサルをしていたハリウッドにあるスタジオを訪れた。「レコード会社の人間が電話してきてこう言ったんだ。『今日リックが来るから』」シャープは1994年7月のインタビューでそう語っている。「『どうせ言ってるだけだろ』って感じで、最初は真に受けてなかった。でも当日、ドラマーのパットが彼を近くの楽器屋で目撃してたんだ。彼はこう言ったよ『こりゃ本当に来るかもしれないぞ』」彼との対面に備え、ウィーザーは急遽レパートリーにある曲を加えた。「僕らは『燃える欲望(原題:Just What I Needed)』をカバーすることにした」ウィーザーの初期ギタリストだったジェイソン・クロッパーはMagnet誌にそう話している。「茶目っ気と敬意を同時に示したってわけさ」(後にオケイセックはその急造カバーについて「すごくキュートだった」と話している)



オケイセックの過去の作品を聴き漁っていくうちに、バンドは自分たちの音楽との共通点を数多く見出していった。「カーズの初期の作品に夢中になった。音楽的に自分たちと近いものを感じていたんだ」シャープは1995年にAquarian Weekly紙にそう語っている。「コード進行やダウンストロークの使い方、メロディセンスなんかが似ていたし、タイトだっていう点も共通してた。『バディ・ホリー』は『燃える欲望』に似てると言えなくもないね」

オケイセックの気楽なキャラクターは、外部プロデューサーがもたらすストレスに対するメンバーの懸念を払拭した。「彼らにはただ好きなようにやらせればいいと感じたんだ。僕があまり口を出す必要はないと思った」オケイセックは『Rivers’ Edge』でそう語っている。事実、彼はバンドに自由にやらせたが、ひとつだけ忠告した。それは彼らが慣れ親しんだガレージを使わないということだった。「僕は彼らをニューヨークに呼び寄せ、エレクトリック・レディでレコーディングさせた。それがいい結果を生むと信じていたからね」

Translated by Masaaki Yoshida

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