エルトン・ジョン自伝映画『ロケットマン』を事実検証

8. ジョン・リードと出会った時期が異なる

映画によると、エルトンとバーニーはTroubadourでの公演後に、Mama Cassの自宅で行われたパーティーに参加している。バーニーが席を外し、エルトンが1人でいるところに声をかけるスコットランド人男性、それが1998年まで彼のマネージャーを務めることになると共に、向こう数年間エルトンの恋人となるジョン・リードだ。彼との出会いはエルトンの生涯における重要な1ページに違いないが、実際に2人が出会ったのは同年後半に行われたモータウンのクリスマスパーティの場だった。

9. 1971年〜1990年の出来事の時系列が不正確

Troubadourでの衝撃的ライブの後にエルトンが経験した出来事の数々が、劇中では実際の時系列を無視して描かれている。彼がヘッドラインを飾った新聞やゴールドディスクのモンタージュ写真が登場したかと思えば、突如1976年に飛び「恋のデュエット」をキキ・ディーと共にレコーディングする。かと思えば1975年に行われたドジャースタジアムでのコンサートが描かれ、1989年にトレードマークとして確立されたはずのスパンコールのハット姿で1979年作の『恋に捧げて〜ヴィクティム・オブ・ラヴ』」のレコーディングに臨む。かなりいい加減なように思えるが、エルトンが」何年も後に入所したリハビリ施設で当時のことを回想しているという設定を考慮すれば、時系列の混乱はむしろ自然なことなのかもしれない。

10. Renate Blauelと結婚したのは1984年

映画では1979年の『恋に捧げて〜ヴィクティム・オブ・ラヴ』表題曲のレコーディング時に出会い、「僕の瞳に小さな太陽」をデュエットしたサウンドエンジニアのRenate Blauelにエルトンが恋をする。他者との確かな結びつきを切実に求めていた彼は、ゲイであることを自覚しながら彼女と結婚するが、2人の関係はやがて破綻する。映画ではスタジオで出会った直後に結ばれたかのように描かれているが、2人が結婚したのは1984年のことだ。

11. エルトンとバーニー・トーピンのタッグが解消されていた期間が長すぎる

劇中では「口論になったことがない」と語っていたジョンとトーピンが、その直後に幾度となく衝突する。とりわけ激しい喧嘩の最後に、バーニーは「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」を歌いながら去っていき、その後何年にも渡って2人がタッグを解消していたかのように描かれている。70年代末にエルトンがゲイリー・オズボーンをはじめとする複数の作詞家と仕事をしていたことは事実だが、そういった状況で作られたアルバムは数枚であり、80年代初頭以降はエルトンの曲の歌詞の大半をトーピンが手がけている。



12. 「アイム・スティル・スタンディング」が完成したのはリバビリ施設に入るずっと前

リハビリによってドラッグとアルコールを断つことに成功したエルトンが「アイム・スティル・スタンディング」を書き上げ、シラフでも優れた曲を生み出せることを再確認するという感動的なシーンで本作は幕を閉じる。実際には同曲は1983年に完成しており、彼がリハビリを終えたのは1990年だ。

繰り返しになるが、こういった事実との相違点は決して重要ではない。エルトン・ジョンの生涯について正確に知りたいのであれば、より適した本やドキュメンタリーが多数発表されている(あえて挙げさせてもらうなら、『Elton John: Tantrums & Tiaras』と『Elton John: Me, Myself and I』をお勧めする)。そういった作品には、劇中でリハビリ施設入所時にエルトンが来ていた巨大な真っ赤な悪魔の衣装も、プールの底で幼い頃の自分自身と「ロケット・マン」をデュエットするというエピソードも登場しない。だがエンターテインメントという観点から言えば、『ロケットマン』がそういった作品よりもはるかに優れていることは確かだ。




Translated by Masaaki Yoshida

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