日本のシティ・ポップは、なぜ世界中のリスナーを虜にしているのか?

80年代の東京(Photo by Ken Straiton/REX/Shutterstock)



アメリカ音楽への愛情と批判

その不思議な親近感は、戦後の日本がアメリカから受けた多大な影響と無関係ではない。そのサウンドは間違いなくアメリカのそれを標榜しており、阿川泰子の「L.A. NIGHT」などは西海岸のファンタジーを見事に描き出している。しかし、シティ・ポップのアーティストたちは単なるフォロワーでは決してない。



「彼らの曲には、アメリカの音楽に対する敬意が現れていると思います」北澤氏はそう話す。「アメリカの音楽の主なポイントを抽出し、自分たちのスタイルに落とし込んでいるんです」

彼の発言は『Pacific Breeze』に一貫して漂う、気楽で風通しの良い南国のムードを見事に言い当てている。第二次世界大戦後の日本におけるアメリカ音楽の流行を後押ししたのは、東京のはずれにある横田基地で生まれた米軍によるラジオ局、Far East Networkだった。ベニー・グッドマンのブギウギから、バーズやバッファロー・スプリングフィールドのサイケロックまで、FENは様々な音楽を世に広めた。50年代初頭、FENはアジア音楽のあらゆるステレオタイプを詰め込んだ反則ギリギリの「ファイアークラッカー」を世界中で大ヒットさせ、「エキゾチカの父」と呼ばれたマーティン・デニーのようなアーティストばかりを取り上げていた。20世紀後半における日本のポップス界のキーマンである細野晴臣が結成し、世界中に衝撃を与えたイエロー・マジック・オーケストラは、1978年に「ファイアークラッカー」のカバーでデビューしている。

「欧米の人々が考えるエキゾチックな要素を取り入れ、そして破壊する。そういう狙いがあったんです」細野は2013年にガーディアン紙にそう語っている。「マーティン・デニーにとって、エキゾチカは模倣するものだったはずです。しかし、僕は当事者だ。僕はウエスタン・エキゾチカの模倣の対象だった。だから僕は、東洋の観点からエキゾチカをやってみたかった」




Noiseyで組まれた特集記事いくつかでRob ArcandとSam Goldnerが語っていたように、細野はキャリアの大半を通して西洋から見たエキゾチカを取り上げ続けたが、そこには批判と愛情が等しく込められていた(それは『Pacific Breeze』に収録されている「ミコノスの花嫁」と「In My Jungle」にも表れている)。細野と同じくそういったサウンドを追求していた高中正義や小林泉美を含め、シティ・ポップのアーティストたちはアメリカだけでなく、世界中の音楽にインスピレーションを求めていた。ベネズエラのクラシック「コーヒーを挽きながら:モリエンド・カフェ」のカバーであり、テクノの要素を取り込んだ異形のダブに日本語詞を乗せた小林泉美の「コーヒー・ルンバ」はその好例だ。


Translated by Masaaki Yoshida

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