世界一のならず者ジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンの規格外エピソード集

ハンター・S・トンプソン(写真)「ハンターの編集はスタミナ勝負だった。でも、私は若かったし、あれは千載一遇だった」とローリングストーン誌創刊人ヤン・ウェナーが語った。(Photo by Arthur Grace/Zuma)

ゴンゾー・ジャーナリズムの生みの親で自称「政治ジャンキー」、ハンター・S・トンプソンがいかにして伝説となったのかを『50 Years of Rolling Stone(原題)』の抜粋とともにお届けする。

1970年1月、ヤン・S・ウェナーのもとにハンター・S・トンプソンから一通の手紙が届いた。ローリングストーン誌に掲載された、悲惨な結果に終わったオルタモン・フリーコンサートの取材記事を称賛する内容だった。

「いかなる基準からしても、本当に良いメディアだ。気取った利口そうな言い回しで台無しにするな。RSが崩壊したあとに残るのは窮地だけだろう」と、トンプソンは書いていた。一つの絆が結ばれてから30年間、トンプソンはローリングストーン誌の誌面上でジャーナリズムの再定義に尽力した。彼が提示した先鋭的なスタイルの文章と生き方は、のちにゴンゾー・ジャーナリズムと呼ばれるようになった。この言葉はトンプソンのライフスタイルを表していたが、彼の天才的な言葉遣い、恐れを知らない大胆不敵な取材記事、他者が恐れを抱くほどの知性の本当の価値は表していなかったのだ。

トンプソンはケンタッキー州ルイスビル生まれで、空軍に従軍し、除隊後にプエリトリコでジャーナリストとして働いたあと、サンフランシスコに引っ越した。そこで始めたヘルズ・エンジェルズの記事の執筆が書籍プロジェクトとなった。そして約2年間、彼はバイクギャングのアウトローたちと共にバイクに乗り続け、1966年、一般社会に生きる人には接する機会のない下位文化の内情を深く読者に伝えるベストセラー作品が出版された。

ある意味で、トンプソンとローリングストーン誌は似たようなスピリットを持っていた。彼がローリングストーン誌に寄稿するようになってから、ウェナーは「The Battle of Aspen(アスペンの戦い)」と題された原稿について話し合うために、トンプソンをオフィスに招いた。これはロッキー山脈に「フリークパワー」を持っていくトンプソンの苦労を書いた原稿だった。このとき、トンプソンは29歳のマリファナ中毒の弁護士ジョー・エドワーズを市長にしようと画策し、トンプソン自身も翌年コロラド州ピトキン郡の保安官に立候補した。

何年かあとに、ウェナーは当時の記憶を辿りながらこう語った。「彼は上背187cmで、頭を剃り上げて、サングラスをして、煙草を吸いながら、6本パックのビールを2パック持ってやって来た。椅子に座ると、ゆっくりと革の小型カバンを開けて、中に入っていた旅行の必需品を私の机の上に広げた。ほとんど金物類で、懐中電灯、サイレン、煙草の箱、フレアジーンズといった具合だった。そして、そのままオフィスに3時間居座った。最後には彼の話にすっかりのめり込んでいた」。トンプソンもエドワーズも僅差で当選しなかったが、自称「政治ジャンキー」のトンプソンの運命がこのとき決定的になった。

Translated by Miki Nakayama

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