ザ・クラッシュ、波乱含みの1982年東京公演を振り返る

1982年撮影のザ・クラッシュ(Photo by Larry Hulst/Michael Ochs Archives/Getty Images)

ザ・クラッシュによる最初で最後の来日ツアーで開催された、1982年1月下旬の中野サンプラザ公演を振り返る。パンクの顔として時代を駆け抜けてきた彼らは、そのとき厳しい局面を迎えていた。

今思えば、ザ・クラッシュは1982年のアジア/オーストラリア・ツアーを廻ることに、おそらく同意すべきではなかった。『コンバット・ロック』の張り詰めたセッションの途中に実施するだけでも無理があるのに、プロモーターは1カ月強で25回ものショウを行うという、狂気のスケジュールを取りまとめていたのだ。5年連続でツアーを続けていたバンドはすっかり消耗し、明らかにガタが来ていた。特に状態がひどかったのはドラマーのトッパー・ヒードンで、彼のヘロイン中毒はもはや制御不能となっていた。

「ジャズの時代にも、チャーリー・パーカーのようなサックス奏者がヘロイン中毒になっていたけど」ジョー・ストラマーは語る。「ウワモノという楽器の性質を考えれば、好きなように演奏していてもまだよかっただろう。だけど、ドラムは違う。床に釘を打ち込むように、然るべきところで正確にビートを刻まなければいけない。中毒になったトッパーは、まともな演奏ができなくなった。ドラムが機能しなくなったんだ」



しかしどうにかして、バンドはツアーをやり遂げていく。1月下旬の東京公演で、彼らは「Jimmy Jazz」「Tommy Gun」「Police on My Back」「White Riot」といった楽曲に加えて、ポール・シムノンの妻であるパール・E・ゲイツ(編注:のちに離婚)がリード・ボーカルを務める形で、ワンダ・ジャクソンの「Fujuyama Mama」も披露している。

「日本に到着したときは相当クレイジーだった」と、ミック・ジョーンズは述懐する。「たくさんの叫び声と一緒にプレゼントが投げ込まれ、俺たちはビートルズか何かのように追いかけ回されたんだ」

Translated by Rolling Stone Japan

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