サマソニ生みの親が語る、静岡愛と人生の話「誰にでもチャンスはある」

何も持っていない自分が業界に入ったんだから、死に物狂いで毎日怒られながらもこなしていた

―とりあえず絶対に東京に行こうという気持ちはあったんですね。

清水 あったね。西友の屋上から焼津を見渡したわけよ。海と山に見慣れた景色で全てが見える。高校生くらいの時にその景色を見ながら、自分はこの狭い町で終わっていいのかなーと真剣に考えて、ここで終わりたくないって思ったんだよね。焼津は好きなんだけど……夢をあきらめた人たちをたくさん見てきたから、この町でこのまま終わりたくないなって、絶対にここから出ようって。

―東京にはレコード屋がいっぱいあるし、ライブハウスにすぐに行けるし、電車もたくさん走っているから夜遅くまで遊べる。焼津にいた時とは劇的に違う環境が待っていたと思うんですけど、どう感じました?

清水:ここぞとばかりに遊んだね(笑)。学校はすぐに辞めちゃったけど、東京にいる理由がほしかったから、最終的には海外に行きたいという夢もあって英語学校に通ってまだ東京にいれるように暮していた。レコード屋とパブでバイトしながら、あの頃はディスコやビリヤードで夜通し遊ぶ時代だから、とにかくあまり焦らず将来のことを考えずに好きなことをやっていた。ただ3年くらい経った頃に、親父も定年だしそろそろ約束は守らないとヤバいなと真剣に考えて、求人誌を見ながらいろんなところにアポを取って、ようやく音楽業界に入るための動きをスタートしたと。それが21歳の時。

―そこでプロモーターの仕事を紹介してもらったんですか?

清水:実際は紹介してもらったというよりも“プロモーターからやったら?”って。ヒントを貰ったんだよ。最初はレコード会社か音楽雑誌の編集かラジオのディレクターという、自分が夢中になったジャンルしかなく業界を知らない俺にとって、コンサートプロモーターが自分の目標の中のひとつに加わったんだよね。業界の人にここから始めた方がいいと言われたから、素直にコンサートプロモーターから始めようと思って、求人をくまなくチェックして、海外アーティストのコンサートって書いてあったから“ここだ!”と思って面接を受けて。小さな会社だったから運良く入れたんだ。宣伝を中心にやるってことで入社したんだけど、ザ・クルセイダーズの来日公演が決まっていたから、入社してすぐに舞台監督をやらされて(笑)。何が何だかわからないよね。まあ苦労したけど、何も持っていない自分が業界に入ったんだから、死に物狂いで毎日怒られながらもこなしていたけど。

―20代はがむしゃらに働いて、1990年にクリエイティブマンを設立という一大転機があったわけですが、20~30代の頃、地元との向き合い方はどんな感じでしたか?

清水:実家に帰らないとかはなかったね。静岡って自分が成功するまで絶対に帰らないぞ!という距離感じゃないから(笑)。ただ静岡の人だと最終的には田舎に帰りたいって人が多いけど、少なくともそういう部分は自分にはないね。その線引きはしているかな。

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