発売禁止になったビートルズの「ブッチャーカバー」にまつわる裏話

写真家ロバート・ウィテカーによるグロテスクな“ブッチャー(虐殺者)”の写真が、図らずもビートルズの超レアで最も珍重されるコレクターズアイテムとなった。

ひとりの写真家による常識はずれの思いつきが、ファブフォーの究極のコレクターズアイテムを生み出した。生肉、バラバラ人形、白衣を着たメンバーという表現は、激しい物議を醸し出した。それは、本当にベトナム戦争への抗議だったのか?ビートルズの歴史的アルバムとも言える、発売中止になった"ブッチャーカバー"にまつわる当時の裏話を回想する。

「アルバムカバーは僕のアイディアの方が良かったよ。ポールの首を切り落とすイメージだ」とかつてジョン・レノンは、アルバム『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』のカバーの話題になった時にジョークを飛ばしたことがある。1966年にリリースされた同アルバムは、北米向けに当時のザ・ビートルズの楽曲を寄せ集めて製作されたものだった。冗談はさておきレノンの発想は、同年6月のリリースへ向けて最終的に選ばれたカバー用写真に比べれば可愛いものだ。タイトルにヒット曲『イエスタデイ』の名前を見つけて咄嗟に手を伸ばしたファンは、食肉処理業者(ブッチャー)の白衣を着たメンバーがいたずらっ子(というよりむしろ殺人鬼のように)気味悪い微笑みを浮かべ、生肉の切れ端やタバコの火を押し付けられバラバラになった人形をまとったグロテスクなイメージに衝撃を受けた。レノンがバンド仲間の内蔵を引っ張り出して四つ裂きにでもした方がまだ、激しい論争を抑えられたのではないだろうか。

半世紀が経ってもなお、生後間もない赤ん坊を虐殺する楽しげなファブフォーの姿は、とてつもなく異様だ。同アルバムカバーは直ちに回収されたものの、そのような奇異なカバーが制作されたという事実はバンドの歴史に残された。1966年当時、アルバムカバーにトイレの便座を描くことなど考えられなかったし、パンクロッカーたちが世間を挑発するようなアプローチを取り始める10年も前の話だった。それでも修羅場の中で笑っていられるのがビートルズなのだ。

いわゆる“ブッチャーカバー”は他にもロックの不名誉な記録を打ち立てた。ジョージ・ハリスンがかつて「ビートルズのコレクターズアイテムの決定版」と呼んだ同アルバムカバーは、何万ドル、時には何十万ドルもの値が付いている。バンドの歴史上、今なお全く正しく理解されないチャプターのひとつだ。ベトナム戦争に対するビートルズからのメッセージか? レコード会社に対する彼らの抵抗か? 売名行為か? それとも退屈したロックスターによる未熟な悪ふざけか? しかし実態は、もっと複雑なのだ。

アルバムカバーのイメージは、ロバート・ウィテカーによるアイディアだった。ダークなユーモアとシュールな感性を持つ当時26歳のオーストラリア人写真家は、バンドのお気に入りカメラマンのひとりとなった。ウィテカーはビートルズの印象的な写真を撮影した複数の実績があり、ジョン・レノンがタンポポの花を片目に当ててポーズを取ったユニークな写真(1965年)の作者でもある。ギリシャ神話のナルキッソスやギリシャの悲劇詩人エウリピデスにヒントを得た同作品は、ビートルズの一風変わった感受性を見事に表現している。

1966年3月25日、メンバーはロンドンのおしゃれなチェルシー界隈にあるウィテカーのスタジオを訪れる。アイディア満載のウィテカーの頭には、ある大胆なコンセプトが浮かんでいた。「ビートルズのクリーンなイメージを押し出した写真には飽き飽きしていたから、ポップアイドルのイメージに大革命を起こしてやろうと考えた」とウィテカーは、作家のジョン・サヴェージに語っている。シェイ・スタジアムで行った記録破りのコンサートをはじめ、ビートルズに対する聖書レベルの誇大な称賛を個人的に目撃してきたウィテカーは、彼らの誇張された名声を皮肉り、ロックの神と崇められる彼らが実際は血の通った人間であることをファンに気づかせるような風刺的写真シリーズに仕上げようと目論んでいた。「世界各地で彼ら4人が神のように崇拝されるのを見てきた。しかしファンが彼らに注ぐ情熱を目の当たりにして、キリスト教の信仰はいったいどこへ向かうのだろうか、と思った。」

レタッチし細工された彼の作品は、ロシア聖教の三連イコン風に仕上げられた。サルヴァドール・ダリとルイス・ブニュエルによる共同映画作品『アンダルシアの犬(Un Chien Andalou)』をはじめ、概念芸術家メレット・オッペンハイムの作品、ハンス・ベルメールの写真集『人形(Die Puppe)』の影響を受けながら、ウィテカーは自分の夢に出てきたイメージも取り込んだ。その後お蔵入りする彼の作品は、『夢遊のアドベンチャー(A Somnambulant Adventure)』と呼ばれた。

もちろん、通常のフォトセッションという訳にはいかなかった。そしてビートルズ側も、予期せぬ展開に全く準備ができているはずもなかった。ウィテカーによる写真撮影のために4人が公の場で揃ったのは、1965年12月にイギリスで行ったコンサート以来だった。1966年初頭はバンド名義の3本目の映画撮影が予定されていたものの脚本が完成しなかったため、彼らが世界的なスターの座を得てから初めてまとまった自由時間ができた。結果として4人にはそれぞれの趣味を追求する時間ができ、当時ロンドンで盛り上がっていたカウンターカルチャーに関する本、演劇、絵画、音楽などを楽しみ、知的教養を高めた。

Translated by Smokva Tokyo

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