サンタナを救った一曲、低迷期に大ヒットが誕生した感動秘話

デイヴィス:「もし君がアルバムの半分を私に任せるというアイデアに同意してくれるならやれる。私が君のすばらしさを絶対に損ねない作曲家や曲を探すが、シングルとして出すのは君がつくる曲で構わない。だから、これはすごく自然でオーガニックなものになる。絶対に君に妥協を求めるようなことにはならない。そして、アルバムの半分は君がやりたいようにやればいい。これには君が何よりも重要なんだ。カルロスが重要なんだ。もしこのアイデアに賛同してくれるなら君と契約する」と言うと、彼はその場で同意してくれた。

リチャード・パルミーズ(アリスタの当時のプロモーション部門のヴァイスプレジデント):当時クライヴとは毎週会議をしていたけど、たしか彼はそこでそれを発表したんだ。控えめに言ってもみんな驚いていたよ。30年以上もカルロスをラジオで聞くことはなかったからね。思い切った決断だった。当時のチャートを見るととても若々しいポップなバックストリート・ボーイズやクリスティーナ・アギレラ、TLC、ディスティニーズ・チャイルド、ブリトニー・スピアーズがいたわけだからね。

デイヴィス:そこで異論を唱える者はいなかったけど、後で「デイヴィスはバカだ」って言われていたのは耳にしている。

ガンバーグ:目的は商業的な成功だったけど、誰も実際にどうしていいのかはわからなかった。私は97年の10月にA&Rの新人として入って、自分はまだ1人のアーティストとも契約していなかったから本気で自分がやることを探していたんだ。だから、私は個人的にクライヴのサンタナとの契約を挑戦だと感じていた。B.B.キングの97年に出た『デューシズ・ワイルド』というディアンジェロやボニー・レイット、トレイシー・チャップマンなどのアーティストとのデュエット・アルバムがあったんだけど、私はチャートばかり見ていたからそれが普段のB.B.キングのアルバムより売れていることに気づいた。そのアルバムを手に入れて聞いてみたら「コンセプトはすばらしいけどできがひどい」と感じた。曲が良くなかったんだ。

でも、私は「そのコンセプトをサンタナでやってみよう。それにはリサーチが必要だ」と思った。私は文字通り見つけられる限りのすべての雑誌記事を読んで誰かサンタナを聞いて育ったアーティストはいないかを探した。カルロスの当時のマネージャーに電話してそのアイデアを伝え、彼がカルロスにそれを伝え、カルロスは「いいね」って言ったんだ。

2. 形になり始めた「スムース」

翌年、デイヴィスとガンバーグはサンタナをローリン・ヒルやデイヴ・マシューズ、エヴァーラスト、エリック・クラプトンなど幅広いポップ・スターたちと繋げた。しかし、そのようなアーティストとの曲も1曲目のシングルとして決定的なものとはならず、早急に解決策を見つけなければならなかった。

ガンバーグ:1年半ほど経った99年1月に、クライヴの財務担当者が私のところに来て「君がお金を掛けすぎているこのアルバムはもう完成させなければならない。君の個人的なお遊びになっている。もう遊んでいる場合じゃない。リリースしなければならない。時間切れだ」と言った。私が「まだできていない」と言うと、彼は「いや、もう完成だ」と言い、私が「まだ1曲目に出すべきシングルがない」と言ったら「関係ない。もう完成だ」と彼は言ったんだ。私はまだ数週間の時間があるのはわかっていたが最初のシングルにするべき曲がまだないという大きな問題を抱えていた。正直困り果てていたよ。候補のアーティストにはもう全員に当たっていたからね。

ある時、突然ゲリー・グリフィス(アリスタの有名なA&R責任者)に「まだサンタナのアルバムはやってるのか?」と聞かれて「はい、でももう1曲必要だと思っています」と答えたら「これからある作曲家の代理人になるかもしれないんだが彼がサンタナに合いそうな曲のアイデアあるって言っているんだ。紹介してもいいか?」と言われた。それがイタール・シャーだった。

Translated by Takayuki Matsumoto

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