ドクター・ジョン逝去、音楽を愛しニューオーリンズを世界へ伝えたレジェンドの生涯

1973年のローリングストーン誌でのインタビューでは、「商業的」音楽を作ることへの内なる葛藤について語っていた。曰く「レコードを商業化する唯一の要素は人がそれを買うかどうかだ。もともと私は、商業的なものを作るとは自分自身を売ることだと思っていたし、音楽の質を落とすことだとも思っていた。でもよくよく考えてみたら、音楽を台無しにしないで、ルーツや自分が表現したい音楽要素を維持したままで商業的な音楽を作るのは可能だと思うようになった。それこそ、作ってから恥じ入るような作品ではなく、作ったことを誇らしいと思うセンスのある音楽をね。そういう楽曲なら悪くないし、いい方向に役立つことだってあるかもしれない」と。



1976年までにドクター・ジョンの人気は最高潮に達し、ザ・バンドの解散ライブであるラスト・ワルツにボブ・ディラン、ニール・ヤング、エリック・クラプトン、マディ・ウォーターズなど、当時を代表する錚々たるアーティストとともに招待された。しかし80年代に入ると商業的な運気は陰りを見せ、その頃からヘロイン中毒が長年に渡って彼のキャリアの足かせとなった。1989年、ドクター・ジョンはやっとドラッグを断ち切り、リンゴ・スターの助けによって復活を果たした。リンゴ・スターは初回のオール・スター・バンドにドクター・ジョンを引き入れてツアーを行ったのである。そして2011年、ロックの殿堂入を果たした。

ドクター・ジョンは長いキャリアの中で多数のアルバムをリリースしており、ソロ作品以外にも、ジャズの巨匠アート・ブレーキーとデヴィッド・“ファットヘッド”・ニューマンと組んだトリオ、ブルージアナ・トライアングルとしての作品もある。彼はジャズポップ(『シティ・ライツ/City Lights』)、ロック前夜のポップスのスタンダード曲(『イン・ア・センチメンタル・ムード/In a Sentimental Mood』)を作り、故郷に敬意を表していた(『ゴーイング・バック・トゥー・ニューオーリンズ』)。2012年にはダン・オールバックがプロデュースしたアルバム『LOCKED DOWN/ロックト・ダウン』をリリースし、これはローリングストーン誌が選ぶ2012年ベストアルバムの1枚となった。



精力的にツアーを続けていたドクター・ジョンだったが、2017年に健康を害してツアーから撤退した。2010年に行ったローリングストーン誌のインタビューでは「外食はほとんどしない。肝硬変だからラムなど食べられないものがけっこうあってね。食べられるものが限られているのだが、私はシーフードが好きなんだよ。ほんと、かなり残念だ」と語っていた。

1973年に、ドクター・ジョンはローリングストーン誌のインタビューで、観客はニューオーリンズだとかブードゥーなんて考えないで自分の音楽を楽しめばいいと述べていた。「何であっても、大いに楽しむつもりなら知識なんて必要ない。音楽は世界共通の言葉なんだから。イタリア語のオペラだって、イタリア語を理解する必要はない。席に座って聞こえてくる音楽に共感すればいいだけだよ」と。

Translated by Miki Nakayama

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