『ボーイズン・ザ・フッド』の故ジョン・シングルトン監督、本人や共演者の発言から見る人生の歩み方

シングルトン監督はロサンゼルスのサウスセントラル育ち。幼いころから映画の虜となり、しまいには南カリフォルニア大学(USC)の映画脚本コースに入学した。「みんなリッチになりたがっていた。でも、そのために働くのは嫌だった」と監督。「僕はお金儲けのために映画を始めたわけじゃない。身近な人々を題材に、誰もやったことのない方法で、世に残る作品を作りたかったんだ」

USCでシングルトン監督はジャック・ニコルソン脚本賞を2度受賞。講師の助けを借りて、初期の脚本をエージェントに渡すことに成功。めぐりめぐって『ボーイズン・ザ・フッド』の脚本はコロンビア・ピクチャーズの元に行きつき、まだ若かったにも関わらず、シングルトン監督はスタジオの会長を説得して見事監督デビューを果たした。最終的にオスカーで歴史的快挙となるノミネーションを受けたとき、彼はまだ24歳だった。

『ボーイズン・ザ・フッド』で成功を収めた後、シングルトン監督は1993年の恋愛ムービー『ポエティック・ジャスティス』――主演はジャネット・ジャクソンとトゥパック・シャクール――や1995年の『ハイヤー・ラーニング』など、人種差別や暴力をテーマにした青春ストーリーを描いた。1997年の『ローズウッド』では史実ものに挑戦。白人集団が黒人の街を破滅させた、1923年のフロリダ州ローズウッドの虐殺事件を映画化した。

『シャフト』と『ハイヤー・ラーング』に出演したバスタ・ライムズは、シングルトン監督を「ショウビズ界の同業者の中でも一番の仲間」だと言った。「俺を導き、信じてくれた。映画に関しては自分では自信があったが、あいつも俺の可能性に気づいてくれた。あいつはさりげなく、相手に自分の意図を感じさせることができた。まるで自分のことのように、心から気にかけてくれた。あいつが『ハイヤー・ラーニング』や『シャフト』で俺を起用してくれたときは、自分にとっては念願の夢が叶ったようで、言葉にできないくらいうれしかったよ」

2000年代にはヒットムービー監督としての実力も発揮。2000年のリメイク版『シャフト』の他、『ワイルドスピード×2』、『フォー・ブラザーズ/狼たちの誓い』『ミッシングID』などを手がけた。また終盤はTVに活動の場を移し、『エンパイア』『アメリカン・クライム・ストーリー/O・J・シンプソン事件』のエピソードでメガホンをとった。2017年、最後の作品となった犯罪ドラマ『スノーフォール』がFXで公開。80年代初期のロサンゼルスを舞台に、クラック・ブームがいかに始まって広まっていったかを時系列的に描いた。

2000年のリメイク版『シャフト』に出演したサミュエル・L・ジャクソンはこのようにコメントした。「仕事仲間で真の友人、ジョン・シングルトンの死を悼んで一言。彼は多くの若い映画監督に道を切り拓いた。いつも自分らしさ、自分のルーツに忠実だった!!! ブラザー、安らかに。早くに逝っちまいやがって!」

コロンビアの重鎮を説き伏せ、あれほどの若さで『ボーイズン・ザ・フッド』の監督に抜擢された当時の理念と原動力を生涯にわたって維持し続けたシングルトン監督は、その後何十年もハリウッドで傑出した存在として活躍した。「いい映画を作ったときに初めて、やっと認めてもらえる。そうすれば、いい映画として受け入れてもらえるんだ」と、1991年ローリングストーン誌に語ったシングルトン監督。「大事なのは目新しさじゃない。もちろん、いまでは多くの黒人新人監督が出てきているよ。でも、僕は新参者じゃない。この業界にもう長いこと足を突っ込んでいる。長く続けてもいないのに、映画業界の人間だとは言えないよ」

Translated by Akiko Kato

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