クイーンとして生き抜いた、フレディ・マーキュリーという悲劇的なラプソディ

マーキュリーが心の奥にあるものを明かそうとしなかったのはそうすべきだと感じていたからである。彼の女性的な振る舞いは見せかけだと思っている人もいた。写真家のミック・ロックはマーキュリーが“試しに”女性と関係を持っていたのを覚えている(「1,2人の名前は知っているよ!」とロックは言っていた)。また、マーキュリーと長年のパートナー、メアリー・オースティン(彼がロンドンの洋服屋「Biba」で出会った若く魅力的な女性)との深い関係は長く続いた。

「彼は自分が女性が好きだと思っていたんだ。自分がゲイであることを理解するのにしばらくかかっていたようだ…。自分の中に生まれた感情に向き合うことができなかったんだと思う」とマーキュリーのアート・カレッジ時代の友人は伝記作家レスリー・アン・ジョーンズに語った。クイーンの1976年のアルバム『華麗なるレース』までにガールフレンドだったオースティンに対してしばらくの間、変な行動を取るようになっていた。「彼が何かに対して心苦しく思っていたのは見て取ることができたわ」と彼女はドキュメンタリー映画『フレディ・マーキュリー 人生と歌を愛した男』の中で語っている。最終的にマーキュリーは自分の中の感情に気づいたことをオースティンに伝えた。「彼の口からそれを聞けてほっとしたわ」と彼女は言う。マーキュリーはオースティンを個人秘書兼アドバイザーとして雇い続けるなど、2人の親密な関係は彼が亡くなるまで続き、その後も数々の相手と関係を持ってはいたがマーキュリーはオースティンのことを内縁の妻としていた。それ以降、マーキュリーは彼の性的指向を誰かに説明しなければならないという義務感を持つことはなくなった、とオースティンは言う。

彼はくだらない中傷でも許すことはなかった。伝記本『Queen: The Early Years』で、マンチェスターのライブでクイーンと仕事をしたことのある人は「クイーンがステージに登場するとある男がフレディに対して『このホモやろう』って叫んだんだ…。フレディはスタッフにスポットライトを客席に当ててそいつを見つけるように指示した。それで彼はそいつに『君、もう一度言ってごらん』って言ったんだ。そいつは何も言えなくなっていて…。その180cm以上の男が数cmに縮み上がっていた」とこのように語っている。

もしマーキュリーの同性愛がクイーンのメンバー間で問題になっていたとしたら、それを公にするようなことはなかっただろう。そのこと以外にもうんざりするほどの批判が彼らに襲いかかり始めていた。1976年の『華麗なるレース』のリリースの頃にはパンク・ムーブメントがロックのジャンルを分断し始め、クイーンのようなバンドの音楽は厳しく批判されていた。「ロックのライブはもはやファンによる儀式的なスター崇拝ではなくなった。クイーンはまだ続けているがそのような幻想はすぐに打ち砕かれていくだろう」とNME誌は言明した(伝えられるところによれば、クイーンがセックス・ピストルズと同じスタジオでレコーディングしていた時、シド・ヴィシャスがマーキュリーに「バレエを大衆に広めようとしているフレディ・プラチナってのはおまえか?」と言い、マーキュリーが「おお、ミスター・フェロシアス。最善を尽くしているよ」と答えたという)。その理由がなんであれ、クイーンのサウンドは1977年のアルバム『世界に捧ぐ』で劇的に変わった。よりシンプルな音楽になり、豪華なオーケストラとハーモニーは新奇なアレンジへと置き換えられた。「セックス・ピストルズが出てくる前から、俺たちは多重録音の作品はもう十分にやったって思っていた。だから、『世界に捧ぐ』では意図的に基本に戻って勢いを取り戻そうとしたんだ」とメイは語っている。

Translated by Takayuki Matsumoto

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE