クイーンとして生き抜いた、フレディ・マーキュリーという悲劇的なラプソディ

次の2枚のアルバム『クイーンII』と『シアー・ハート・アタック』(共に1974年リリース)でクイーンはその成功を確かなものにした。『クイーンII』の贅沢なサウンドと『シアー・ハート・アタック』のよりハードで推進力のあるアプローチはクイーンの成功の第1期を特色づけた豪華で複雑なサウンドの基礎を築いた。しかし、ステージではマーキュリーがすべてだった。イギリスのマスコミは彼の大袈裟で派手なパフォーマンスに否定的であった。しかし、彼は、しばしばファンをシンガロングに巻き込んだりすることで着実に強力で異常なまでの絆をバンドとオーディエンスの間に築いていった。「理解してほしいのは俺の声はオーディエンスのエネルギーから生まれているということ。彼らが良ければよいほど俺も良くなるんだ」と彼はあるシンガーに語っていた。

4枚目のアルバム、1975年の『オペラ座の夜』のレコーディングの時、クイーンは自分たちの時代が来たと感じていた。「これは俺たちのキャンバスで自分たちのペースでそこに描いていける」と思ったことをメイは回想する。マーキュリーには異常なまでに壮大な曲のアイデアがあった。それまでクイーンの音楽を手がけていたプロデューサーのロイ・トーマス・ベイカーは初めて「ボヘミアン・ラプソディ」を聞いたときのことをこのように語る。「フレディは自分のアパートで『曲のアイデアがある』と言ってピアノを弾き始めた…。そして彼は突然弾くのをやめて『ここでオペラのパートが入ってくるんだ』と言ったんだ。」最初のバラードのパートから、曲はオペレッタのパートへと舞い上がり、そして激しいロックンロールへと変わり、最終的にはバラードに戻る。「あれはフレディの子どもなんだ」とメイは語った。クイーンとベイカーはその曲に数週間費やした。あの曲の有名な大聖堂での合唱のような180度に広がるようなボーカルのパートのサウンドはオーバーダビングを重ねることで生み出された。トラック数が多すぎてテープが透けるぐらい擦り切れ、それ以上レコーディングを重ねると切れてしまいそうなほどであった。

「ボヘミアン・・ラプソディ」が完成するとバンドはそれを『オペラ座の夜』からの最初のシングルにすることを望んだ。エルトン・ジョンのマネージャーでもあった当時のクイーンのマネージャー、ジョン・リードはカットせずに6分近くにも及ぶ曲を出すことなど不可能だと言った。ディーコンも同じ考えであったがテイラーとメイはマーキュリーの決断に賛同した。どんな疑念もマーキュリーとテイラーが完成した音源をBBCのDJケニー・エヴェレットに聞かせた時、すべて吹っ飛んだ。「30分でも問題ない。世紀をまたぐナンバー1ソングになる」とエヴェレットは彼らに言った。「ボヘミアン・ラプソディ」はイギリスでクイーンの初ナンバー1シングルとなり、アメリカでもトップ10に入った。それ以降、この曲は定期的にイギリスの史上最高および最低のシングル・ランキングのトップに挙げられた。マーキュリーはそれにもひるむことはなかった。「多くの人が『ボヘミアン・・ラプソディ』を酷評したけどそれを比べられるような相手なんかいるかい?」と彼は語っている。

マーキュリーはその曲の意味を聞いてくる人たちに我慢ならなかった。「くそくらえだよ。まともな詩人に作品を解説してほしいと頼んだらおそらく『しっかり見れば答えはそこにある』というだろう。俺も同じだ」と彼は語った。しかし、その曲には単にマーキュリーが明かすことのできなかった意味が込められていた可能性もある。「フレディの曲の歌詞には深く覆い隠された何かがあった。でも、すこし考えるとそこに彼の個人的な考えがあることが見えてくるんだ」とメイは後に語っている。実際、『ラプソディ』には今もなお明かされていないマーキュリーの人生の核心につながるカギがあったのかもしれない。評論家アンソニー・デカーティスは「この曲は人に言えない罪について歌った曲だ。『俺は今、罰を受けている』とね。そして、同時に自由を強く望む曲でもある」と言っている。

Translated by Takayuki Matsumoto

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE