クイーンとして生き抜いた、フレディ・マーキュリーという悲劇的なラプソディ

バルサラはすぐにその影響力を発揮するようになり、メンバーにもっと印象的でおしゃれな衣装を着るように説得した。また彼はバンドにピッタリの名前を思いついたと力説した。メイとテイラーはザ・リッチ・キッズやザ・グランド・ダンスのような名前を提案したがマーキュリーはクイーンを強く推した。「この名前にはとても威厳がある」と彼は言った。「とても普遍的で、とても直接的で、強力な名前だ。ビジュアル的な可能性も大きく持っていたし、どんな風にも解釈できる余地があったけど、それは単なる一面でしかないんだ」と数年後、彼は付け加えた。

そして、重大なのはクイーンのリード・シンガーはもうフレディ・バルサラではなかったということだ。彼はフレディ・マーキュリーとなった(その名はローマ神話の神々の使者に由来する)。「彼が名前を変えたのには別の人格を装うような意味もあったんだと思う。彼がなりたかった人間になるための後押しになったんだと思う。バルサラという人間はまだ存在していたけど人前では彼はこの神のような別の人格でやっていくつもりだったんだ」とメイは2000年のドキュメンタリーで語っている。

活動開始当初、クイーンは誰にもその音楽を聞かせず成功への戦略を練ることに1,2年を費やしていたという噂があった(ディーコンは友人たちにバンドには“10年計画”があると豪語していた)。マスコミにはそういった野心は音楽が持つ意味や社会的可能性に対する本物の情熱ではなく、ずる賢い策略に映った。そして、キャリアの大部分を通してクイーンはそのイメージから逃れることはなかった。実際のところ、クイーンの成功には常に契約上の問題や深刻な健康問題が付きまとっていた(ある時、メイは壊疽により片腕を失いかけ、後に肝炎、そして十二指腸潰瘍でも入院していた)。しかし、マーキュリーには退路はなかった。メイ、テイラー、ディーコンは元々、大学の後に目指していた職業を当てにすることができた。メイは活動開始当初、天文物理学の博士論文に取り組み続けており、ディーコンは3枚目のアルバムの後までクイーンで本当にやっていけるか確信を持っていなかったことを後に認めている。最終的にマーキュリーはバンド以外の進路を断つ価値があるということをメンバーに納得させた。「思い切ってロックの世界に飛び込むために他の分野で持っていた資格をすべて捨て去れば2番目の策に甘んじることができなくなるからね」とメイは後に語っている。

1973年7月にデビュー・アルバム『戦慄の王女』をリリースするまでに、収録曲はメンバーたちにとってすでに古く感じるものとなっていた。マーキュリーはジャムや即興といったものが受け入れられなかった。彼は、力強く明確なメロディを乗せた入念に作り込んだ構成の曲こそすばらしいものであり、人に作品を聞いてもらいたいのであれば記憶に残るような演奏をする努力をしなければならない、と信じていた。また、ついに彼はバンドの見え方、どんな衣装を着るのか、どんな風にリード・シンガーが動きステージを指揮するか、が同じく重要であるかをメンバーに納得させることができた。黒い爪とハーレクイン・ボディスーツと天使の羽根のマントでステージ上の彼の力強い輪舞のような動きが強調され、彼はその両性具有的な美しさを大いに楽しんだ。その美しさには不吉さも感じられた。そのような特徴は当時デヴィッド・ボウイやT・レックス、ロキシー・ミュージック、モット・ザ・フープルなどが作り上げていたスタイルに似たものであり、それが懸念であった。「俺たちはスウィートやボウイの前からグラム・ロックに傾倒していた。でも今は心配なんだ。俺たちは遅すぎたんじゃないかって」と当時、メイは語っている。

Translated by Takayuki Matsumoto

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