「グランジ」史上最高のアルバム50選

Photographs in illustration by Kevin Mazur/WireImage, 2; Jeff Kravitz/FilmMagic; Mick Hutson/Getty Images


9位 サウンドガーデン 『スーパーアンノウン』(1994年)


1994年までにグランジはラジオ、フェス界隈(ロラパルーザ)、MTVを席巻していたが、特にアートの一形態としてはそこからどこに向かおうとしていたのか? それがただ一時の流行りではなく、ロックそのものの次のステップであることを示さなければいけないということをサウンドガーデンは知っていた。後にクリス・コーネルが「俺たちが世界のステージで演奏したり、テレビでMVを流したり、ラジオで曲を掛けたりする価値のあるバンドであるということを、みんなで証明しなければならなくなると感じていた。これは『ブリティッシュ・インヴェイジョン』とか『ニューヨークのノイズ・シーン』のようなただの流行ではないんだ」とローリングストーン誌に語っていたように。

そんなプレッシャーを物ともせず、クリス・コーネルとメンバーは「レット・ミー・ドラウン」や「スーパーアンノウン」などの暴れ馬のようなロック曲から「ブラック・ホール・サン」や「フェル・オン・ブラック・デイズ」などのダークなサイケデリア曲まで彼らのバンド史上最も強固な曲群を書き、プロデューサーのマイケル・ベインホーンが彼らの初期のスプラッターペイントのような荒々しさを磨き上げることで、とてつもない作品へと変貌させたのだ。その結果、バンドの巧妙で新しい一面を示すこの4枚目のアルバムが、偶然にもサウンドガーデン自身にとっての『レッド・ツェッペリン IV』のようなものとなり、すぐさまハード・ロック史を代表するアルバムになった。

※関連記事:クリス・コーネル 知られざるフォークへの情熱、ニール・ヤングへの共感





8位 ニルヴァーナ 『イン・ユーテロ』(1993年)


ニルヴァーナの最後のスタジオ・アルバムは“叫び”であった。マルチプラチナを獲得した前作のようなスタイリッシュな叫びではなく、『イン・ユーテロ』は苦痛とフラストレーションの無作法な叫びで、このバンドのことを一切理解することのなかった音楽業界への究極の反抗だったのだ。このアルバムでは痛烈な皮肉(「サーヴ・ザ・サーヴァンツ」「ラジオ・フレンドリー・ユニット・シフター」)と怒りによる浄化(「セントレス・アプレンティス」「ミルク・イット」)、無防備な精神状態(「ペニーロイヤル・ティー」、「フランシス・ファーマー・ウィル・ハヴ・ハー・リヴェンジ・オン・シアトル」)が歌われている。カート・コバーンの怒りは時にそのターゲットを見失っているが(例えば、元々フェミニストを擁護するものとして作った「レイプ・ミー」は、その役割を果たすにはあまりにも露骨すぎた)、変わらない自己破壊的な激しさによって『イン・ユーテロ』はグランジに不可欠な作品となった。

1993年秋のリリースまでにアルバムの“物語”はすでに始まっていた。2年前に突然スターダムに駆け上ったことに動揺したニルヴァーナは、荒々しく商業的ではないサウンドにして、当初レーベルがリリースを拒否したと思われるアルバムを作るため、スティーヴ・アルビニをエンジニアに起用した。「当然、彼らは次の『ネヴァーマインド』を期待しているが、そんなことをするぐらいなら死んだほうがマシだ」とコバーンは言ったと伝えられている。そして数週間後、彼らが富をもたらしたレーベルの人間たちと公に対立する結果となった。

他のどんな話でもそうだが、これも真実の一面でしかない。「ダム」や「オール・アポロジーズ」、「ペニーロイヤル・ティー」「ハート・シェイプト・ボックス」などの曲は『ネヴァーマインド』を躍進させたポップさを洗練し複雑にしたものであり拒絶したものではない。コバーンは後に、このアルバムを『I Hate Myself and Want to Die』というタイトルにしようとしたことについて、ただのダークな冗談だったとローリングストーン誌に語っている。「多くの人が思ってるよりも俺はずっとハッピーなヤツなんだ」と彼は主張した。次は「優美なアコースティック」アルバムを作ると彼は話していた。この後1年もしないうちに彼は亡くなってしまったが、『イン・ユーテロ』の中に込められた矛盾を彼が払拭する曲を聞くことができなくなってしまったことも、その悲劇の一部である。

※関連記事:ニルヴァーナ『イン・ユーテロ』知られざる20の真実





7位 テンプル・オブ・ザ・ドッグ 『テンプル・オブ・ザ・ドッグ』(1991年)


1990年3月に起きたマザー・ラヴ・ボーンのシンガー、アンドリュー・ウッドの死は、シアトルのロック・シーンに大きな打撃を与えた。そのカリスマ的なフロントマンの親友にしてルームメイトであったクリス・コーネルは、その悲しみのすべてを「セイ・ハロー・トゥ・ヘヴン」や「リーチ・ダウン」などの新曲に込めた。コーネルはそれらを残されたマザー・ラヴ・ボーンのメンバー、ジェフ・アメンとストーン・ゴッサードに聞かせ、彼らがサンディエゴ出身のエディ・ヴェダーというシンガーとバンドを組んだことを知ると、すぐに彼らは皆でウッドを追悼するためにテンプル・オブ・ザ・ドッグという名前でレコーディングすることを決めた。このプロジェクトは元々フルアルバムを作る予定ではなかった。

「アルバムにもっと重みがあった頃だ。それからは精神自浄のため、楽しむためのものになった」とコーネルは2016年にローリングストーン誌に語っている。2018年のコーネルのショッキングな死を経てからは、喪失と後悔を歌った曲は全く新しい意味を持つようになった。

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Translated by Takayuki Matsumoto

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