デビュー40周年のASKA、「万里の河」をめぐる出会いのストーリー

―根拠のない自信というのも実にASKAさんらしいですが、ASKAさんは音楽制作に関しても自分は根無し草だと公言していますよね。要は誰かのカバーをしたことがなく、いきなりオリジナルを作り出したと。

ASKA:ええ。もちろんステージをやる時に、松崎しげるさんや西城秀樹さんの曲を歌ったりしていたんですけど、ただ歌ったというだけでいわゆるコピーをした覚えはないんです。普通はコピーから入ってそれを突き詰めてオリジナルを作り出すんですが、そういう経験が何もなくて、いきなり曲を作り始めたんで。

―これまでいろいろなミュージシャンにインタビューしてきましたけど、ASKAさん世代の方だとビートルズ、ローリング・ストーンズ、カーペンターズ、ギター好きだったらクラプトン、ジェフベック、ジミー・ペイジとかのコピーから入った方がほとんどです。

ASKA:今述べられた中で聴いていたのはカーペンターズぐらい(笑)。誰も知らない中で、曲を作り始めた。聴いていたと言えば、大好きだった映画音楽です。今でも『映画音楽大全集』というレコードは捨てられなくて持っています。当時はそれをずっと聴いていましたね。それこそポール・モーリアさんが大好きで。だからメロディには敏感だったんだと思うんです。

―なるほど。言葉=歌詞は重視していなかったと?

ASKA:そうですね。言葉に関しては、歌を歌う時に語呂がいいものが乗っかっていればそれでいいやって思っていましたら。ただ、「ひとり咲き」は今から考えても、若い作品だけどそれなりに狙って書いているので、20歳の作品にしては、それなりに完成度の高い作品だと思っています。それは、楽曲の完成度ではなく、コンテスト用としてという意味です。それ以外の当時の曲は本当に「ど」が付くほどアマチュアで。特に詞に関しては全くダメでした。デビューした時、プロデューサーがすごく厳しい人で、歌詞の大切さをこんこんと突きつけられたんですよ。ところが本人は、「歌詞なんて」ってところがまだあったので。

―大事なのはメロディでしょ?みたいな。

ASKA:そうですね。でも、ちゃんとした歌詞が上がらないとプロデューサー権限で次のレコーディングをやらせてもらえなくて。で、2枚目のシングル「流恋情歌」は、結局書いた楽曲があまりに駄作だったんでしょうね、順位がやっぱりへこんで、ヤマハの僕らへの応援ムードも一気にへこみかけたんだけど、ここは踏ん張りどころだなと思って、ヤマハの当時の部長に直接会いに行ったんですよ。

―どうしたんですか?

ASKA:「次の曲は絶対ヒットさせるので応援お願いします。必ずヒット曲書きます」と公言しましたね。それで書いたのが「万里の河」。なので「万里の河」は何もかもヒット曲狙いで書いた曲です。今にして思えば、若造の大したことのないものですが、ヒット曲はどうやって作るかの自分なりのhow toみたいなのがあって、そのhow toで書いた曲です。で、それがヒットしたために、「ひとり咲き」と「万里の河」でアーティスト色が決まってしまって、今度はそこで苦しむことになるんです。いわゆる「CHAGE and ASKA=演歌フォーク的なものを歌う人」「CHAGE and ASKA=大陸的な歌を歌う人」ってやつです。僕自身は映画音やカーペンターズ、サイモン&ガーファンクルとかが大好きで、当時、ヒット曲になりそうな「演歌フォーク」的な曲を書きました。しかし、体の中から自然に湧いてきたものじゃないから、底が見えるわけです。

―ええ。

ASKA:それで、従来自分が聴いてきたポップス路線に早く乗り換えないと駄目になるなと思ったんです。しかし、プロデューサーは、「演歌フォークだから売れた。ポップスの世界はお前が考えているものより幅があり激戦区だ。それだと、きっと埋もれてしまう可能性が高いから、そこに行くことはすすめない」と。けれど、自分としては行き詰まっているのが分かっていたので、少しずつ路線を変更して行ったんですけど、一度ついた印象を払拭するのは本当に大変で。ラジオに出ても、「CHAGE and ASKAと言えば大陸的な〜」っていう類の紹介しかしてくれなくて。で、これを変えるには、もう根底からイメージを変えなくちゃと思ってロンドンに行ったんです。1年になるか2年になるか分からないっていう気持ちで行ったんですけど、結果は半年で帰ってきちゃいました。ただ、たかが半年向こうに住んだだけで、日本のメディアは「ASKA、ロンドンへ音楽留学」とか取り上げてくれて。あれは体を張ったイメチェンで、成功しましたね。

―マスコミのそういうところって凄いですよね。

ASKA:向こうに行って3カ月経った頃かな。せっかくだからメディアに乗っかろうと。で、レコーディングをロンドンでおこなうことになったんですよ。ある日、1枚のファックスが送られてきた。「そちらでレコーディングをやりたいので、スタジオとミュージシャンを決めておいてくれ」と言われて(笑)。でも2、3カ月ぐらいじゃ英語なんて喋れない。しかも、ロンドンは音楽をしに行ったわけじゃなくて、イメージを変えに行っただけのつもりでしたからね。しかし、妙に風が吹いて来ているのが分かったんです。「今だ!」という風です。問題なのはスタジオとミュージシャンを押さえることでした。向こうに知り合いはいない。頼りは、NHKの英会話のテキストとカセットだけです(笑)。向こうに行ってから、3カ月間、1日中ずーっとそれをやり続けていました。それでも、たったの3カ月……。その間に知り合った日本人の手助けもあり、何とか「スタジオ」「ミュージシャン」「ホテルの予約」を完了し、CHAGEが到着する日を待ちました。スタジオに一人で交渉に行った時は、本当に大変でしたが、今思えば良い経験です (笑)。

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