ブルース・スプリングスティーンの名曲「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」に隠された誕生秘話

1982年4月、スプリングスティーンとEストリート・バンドは『ネブラスカ』のバンド版のレコーディングのためにパワー・ステーションのスタジオAに戻った。ソニー・スタジオの利用記録を見た作家のクリントン・ヘイリンは2012年、ついにEストリート・バンドがこのアルバムのほとんど、もしくはすべての曲をレコーディングしていたことを明らかにしたのだ。その音源は一切リークされておらず、おそらくボックスセットとしてリリースされるのを待たなくてはならないだろう。スプリングスティーンは2日目に「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」に取りかかった。ロイ・ビタンは、彼が4トラックで取ったデモを流すのではなく、アコースティック・ギターを弾きながらその曲を歌ってバンドに説明していた、と回想する。

この頃までにはメロディも改良されており、ビタンはスプリングスティーンが歌ったサビを元に、6つの音のモチーフを作ったと回想する。「彼が歌うのを聞いて僕は言ったんだ。『リフはそれだ』ってね。とてもシンプルなリフだ」とビタンは言う。彼は非常にフレキシブルな最新アナログ・シンセサイザー、YAMAHA CS-80の前に行き、そのサウンドを形にしていった。「僕は曲が何について歌われたものなのかを知るため、いつも熱心に聞いていた。そして彼が何について歌っているのかがわかった時に、自分が生み出したのは東南アジアテイストの変わったシンセサウンドだった。それであのリフを弾いたんだ」とビタンは語る。ビタンが2回目を弾くまでにマックス・ワインバーグがそれに合わせてスネア・ドラムを叩き始めていた。

そこからダニー・フェデリッチが一度だけピアノを弾き、スティーヴ・ヴァン・ザントがアコースティック・ギターを奏で、曲のレコーディングが始まった。「ブルースはマックスと僕が演奏しているのを聞いて『待って、待って。ストップ。よし、テープを回して。みんなコードはわかってる?』と言うからわかってるよって答えたら『よし、じゃあテープを回して』って言って。それで、はい、出来上がり」とビタンは言う。

ワインバーグは別の思い出を語っている。彼の記憶によると、この曲は最初“カントリー・トリオ”としてのバージョンが録音され、そこではカントリーのビートが用いられた。それから、スプリングスティーンはローリング・ストーンズ「ストリート・ファイティング・マン」のドラムを想起させるリズムをかき鳴らし、それに合った演奏をし始めた、とワインバーグは回想する。「他のみんなが出てくると彼は『このリフを繰り返し弾いてくれ』って言ってアレンジをしたんだ」と彼は語る。(しかし同時に、彼はビタンの記憶に反論するつもりはなく「ロイがリフを思いついたのかもしれない。この章は『羅生門』と名付けてもいいかもね!」と話している)

この曲の始まりがどちらであったとしても、アルバムに収録されているのは序盤の“生の”テイク(数分セッションしたものをカットしたもの)である。『ザ・リバー』のレコーディングセッションから数年間、ワインバーグは自分のスキルを一から見直すためにセッション・ドラマーの巨匠ゲイリー・チェスターのレッスンを受けていた。彼が学んだことは「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」に反映されている。アルバム収録テイクのレコーディング中、「スプリングスティーンは両手を挙げ、『ソロをやって』と言うようにエアードラムを叩く素振りを見せたんだ。でも、リフを弾いてたロイとダニーは、スタジオの立ち位置的にスプリングスティーンが止めるのが見えなかった。だから、その部分を聞いてみたらリフがまだ続いているのがわかるよ。その彼らもリズムが止まったのを感じて、演奏を一時ストップさせたあと、スプリングスティーンの1、2、3、4のカウントでみんな戻ったんだ」とワインバーグは回想する。

彼らは明け方3時頃にレコーディングを終えた。そして6時間後、スプリングスティーンはラジカセと、(エンジニアの)トビー・スコットによる曲のラフミックスが入ったテープを持ってワインバーグの家を訪ねた。スコットはワインバーグのスネアに(壊れたプレートリバーブを使って)ゲートリバーブをかけたものに、スタジオAの天井につけられた過剰なまでのルームマイクを足して、グランドキャニオンの底で重厚な大砲を撃ったようなサウンドにした(最終ミックスではボブ・クリアマウンテンによってさらに壮大なサウンドになった)。

「うちのテラスに座って生搾りオレンジジュースを飲みながら『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』を20回ぐらい聞いたよ。忘れることはできない。クビになりそうなところからこの音源のドラムにまで行き着いたわけだからね。彼は僕に『この曲のドラムはボーカルと同じぐらい重要だ。混乱と爆弾を表現するようなサウンドで、君は僕が持っていた曲のイメージを完璧に再現してくれたよ』と言ってくれたんだ」とワインバーグは語る。この後、世間がそれを耳にするまで2年かかることになるが、スプリングスティーンはバンドと共に、自分たちの作品の中で最もすばらしい音源の1つを完成させたと感じていた。

「生きる理由」の物語の主役が生きること自体の意味を奪われたのと同じように、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」の主役は彼にとって大切な、生まれながらに持つ権利のすべてを奪われた。しかし、この曲の激しいサウンドが(多くのリスナーにとってはわかりにくいであろうが)もし何かを意味するとすれば、それは地面をしっかりと踏みしめるために、そしてもしかしたらスプリングスティーンが後に「私達が心の中に抱く国」と呼ぶものの面影を再発見するために、スプリングスティーンが自分自身の意味を見つける決意をしたということだろう。

2005年にスプリングスティーンは私にこう語っている。「『明日なき暴走』と『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』の大きな違いはね。『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』は明らかにどこかで立ち止まっている曲なんだ」

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※関連記事:写真家が語る、ブルース・スプリングスティーンとの日々:80〜90年代の秘蔵プライベートフォト


Translated by Takayuki Matsumoto

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