ソランジュ、話題のニューアルバム『When I Get Home』を若林恵と柳樂光隆が考察

ソランジュの最新アーティスト写真(Photo by Max Hirschberger)

ソランジュが3月1日に突如発表したニューアルバム『When I Get Home』が大きな話題を集めている。2019年を代表する作品になりそうな本作を掘り下げるため、『WIRED』日本版前編集長(現・黒鳥社)で音楽ジャーナリストとしても活躍する若林恵と、『Jazz The New Chapter』シリーズの監修で知られる柳樂光隆によるクロスレビューをお届けする。



ソランジュという運動体
若林恵

音作品としてのアルバムの制作が音楽家の活動の中核をなしていた時代は、もう終わりを迎えているのかもしれない。

すでにしてSpotifyのような配信プラットフォームでは、アルバムよりもプレイリストのほうが重視されていて、アーティストが精魂こめてつくりあげた音楽上のナラティブなんていうものは、そのチャネル内では意味を失いつつある。

一方で、音楽活動は、もはや音楽だけを扱うものではなくなっているというのも趨勢だ。

音楽をマーケティングするために動画の制作は不可欠なものとなっていれことは言わずもがな、かつてグッズと呼ばれ、いまならマーチャンダイズと呼ばれる多種多様な制作物ですら、アルバムのリリースを契機としてとして行われるツアーの付属物=お土産であることから離れて、より積極的な意味を担うようになっている。コンサートは同時に映像上映の場でもあるし、ポップアップストアでもありうる。

音も映像もテキストもアパレルも、みな等価の表現とみなすことは、いわゆる360度ビジネスの当然の帰結だろう。当のアーティストにしたって、そうした環境に慣れ親しんでさえしまえば、さまざまなメディアを通して多様な表現形式を扱うことは面白いに違いない。音楽家は音楽だけやっていればいい、なんていうような状況はバカバカしいくらいに窮屈なものに感じられていたとして不思議ではない。

とはいえ問題もある。そうやって360度に向けて全方位に展開された表現は、その各要素がチャネルごとに点在してしまって、集約されることがない。表現の全体像を知るすることすら難しい。そしてそうであるがゆえに、個々のアウトプットの断片を、それを独立した完成品として扱い論評を加えることも困難になっている。



ソランジュの最新作『When I Get Home』は、一聴してその悩ましさに直面させられる作品だ。すでにいくつかのメディアが掲出した論評を読むにつけ、それがなにやら煮え切らない評価に終始しているのは、この作品が、そもそもアルバムというものの優位性や特権性を批評的に扱うことで成り立っているからだろう。当然、その特権性を補完すべく発動されてきた批評や論評、レビューといった営為もここでは相対化される。この作品について書くのは本当に難しい。いくつも書き直したテキストの5本目だか6本目が、この原稿だ。

33分のショートフィルムが音作品から間を空けずにリリースされたことからもわかるように、すでにして、アルバムというフォーマットは、ここでは必ずしも表現の中心をなしてはいない。音楽が先にあって、それを補完するためにミュージックビデオがつくられ、振付や衣装が、それを後追いするかたちで構想されるという、従来の制作の流れのなかにこの作品が本当にあるのかどうかまずは疑ってみるべきだ。音と映像とダンスは、どれが先でどれが後、どれが主でどれが従なのか、もはや判然としない。同時進行で関与しあいながら、それらはどうもシームレスにつながっている。

最新作のリリース直後に、Pitchforkが「前作から今作の間にソランジュがやったこと」という記事を掲載したのは、そうした観点からも実に的を射ていた。ソランジュは2016年リリースの前作『A Seat at the Table』をリリースしたのち、かなりユニークな活動を展開してきたからだ。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE