ソランジュ、話題のニューアルバム『When I Get Home』を若林恵と柳樂光隆が考察

コンサート形式のライブは、シドニーのオペラハウスやラジオシティミュージックホールなどで開催されたものの、最も目立っていた活動は、ニューヨークのグッゲンハイム美術館、ロサンゼルスのハマー美術館、ロンドンのテート美術館などで披露した、それぞれ異なるライブインスタレーション/パフォーマンスだった。とりわけユニクロとのコラボレーションによって実現したハマー美術館での作品「Metatronia」は意義深い作品だったようで、ディレクターとしてのみならず、建築家・セットデザイナーとしてもクレジットされている本作に寄せて、ソランジュはこんなステートメントを残している。

「メタトロニアは創作をめぐるプロセスとマッピングの探究です。創作空間と内なる静けさをもたらし、創作へと導いてくれる直感力をめぐる訓練です。継続的に興味を抱き続けてきた建築と動きの関係を黙想しつつ、視覚的なストーリーテリングを通して、波長をつくりあげ、内的な充電がなされていくさまを本作では描き出しています」

訳してみても意味の判然としない文章ではあるけれど、少なくとも、ソランジュが相当意識的に創作のプロセスというものを問題にしていること、そして『When I Get Home』のショートフィルムからも明らかなように、建築と人体の動きに、強い興味を示していることがわかる。そして、そうした探究の痕跡が、強く新作に反映されていることは、すぐさま聴き取ることができる。



冒頭の5分を一聴するだけで、これが前作『A Seat at the Table』とはまったく異なる作品であることはたちどころにわかる。本作は、よりオープンで、よりセッション的、直感的だ。メロディやことばの断片は、丹念に練り込まれる前に、そのまま水平方向に移動して次の曲へと移っていくかのようで、いい曲をつくろうとか、磨き上げられた完成品を目指そうという意思は稀薄だ。曲が曲として構造化してしまう前に動き去ってしまうことがむしろ意図されているようなのだ。前作が、構築的で静的なものであるなら、今作は、明らかに即興的で動的。前作が、完成を重視した作品であるなら、本作は、ステートメントにもあった通り、プロセスそのものが重視されている。

そして、それは、ショートフィルムにおいても同じだ。頻出する群舞、集団の動きは、彼女がこの数年提示してきた作品の延長線上にあるのは明らかで、その映像はリアル空間において披露されたライブインスタレーションのドキュメント映像と言ってもいいほどだ。

そうやって見ていくと、ソランジュの活動にかりそめの中心を置いたとして、それがもはやアルバムという音作品ではないことがわかってくる。

音、映像、建築、ダンスといったそれぞれの要素を出会わせ、シームレスかつボーダーレスに融け合わせるせることができるのは、フィジカル空間においてなのではないか。前作発表以後の活動においても、コンサート形式のツアーよりも、グッゲンハイム美術館の空間全体を使ったパフォーマンスのほうが表現としての重みづけが大きかったのではないかと思われるほどで、今作においても、ライブインスタレーションのようなフィジカルなショーが披露されるのは間違いないことのように思える。

ただでさえ、今作の音は、ライブという形骸化した形式には、最もふさわしくないものだ。これがリアル空間において表出されたなら、それが、アートパフォーマンスでもあり、ライブでもあり、ダンスショーでもあり、インスタレーションでもあり、建築や環境でもあるような、そして、完成された作品のお披露目であるよりも、むしろ作品の生成プロセスそのものが体験となるようなものになるであろうことは想像に難くない(Pitchforkは、本作が「彼女が好む、身振りに富んだ、ポストモダンでケイト・ブッシュ的な振り付けの最良のテンプレートになるだろう」と評している)。

これはなにも、ソランジュだけがそのような特殊なアウトプットを必要とする、というわけではないはずだ。アーティストという存在は、冒頭で述べたように、音楽なら音楽、映像なら映像、といった20世紀的な分類では括ることのできない存在にすでになっている。そして、その活動は、その全体を動的な運動体としてみなすことで、はじめて意味が立ち上がってくるようなものとなっている。かつてであれば、作品という「点」のなかに集約されてきたアーティストの活動の本質は、360度常時接続の時代にあっては、プロセスそのもののなかへとシフトしており、それに連れて出力の形式も、より動的な、ダイナミックなものであることが求められていく。そして、フィジカルな空間にこそ、その新たな可能性があるということこそが、ソランジュがこの間の活動を通じて明かしてきたことだった。また、こうした一回限りの、そのとき・その場だけのリアルタイムの表現は、結果としてSNSのダイナミズムと親和的でもあるのも重要なポイントとなる。



いずれにせよ、『When I Get Home』は、その音だけを取っても、実に空間的、インスタレーション的だ。ただ、じっと聴くのではなく、そのなかを動き回って動きを眺めるような、新しい音楽との向き合い方を授けてくれる。

ソランジュは、他の誰にもできないやり方で、これまでのアーティストのあり方、アウトプットの形式を、ダイナミックに再編してみせている。そして、そこには、音楽をめぐるありとあらゆる制度に向けた根源的な批評も含まれている。10年以上のキャリアをもちながら、4枚のアルバムしか残していない、遅咲きの、そしてある意味不遇だったアーティストは、音楽を取り巻く既存の環境の限界を遠くで見据えながら、それを飛び越えていく回路を地道に切り開いてきたのだ。そして本作をもって、あの姉をさえ抜いて、一気に時代の最前線に踊り出た。

言うまでもなく、これは音作品自体に対する評価ではなく、彼女の活動の総体、そのムーブメントに対する評価だ。いま彼女に拮抗しうるのは、フランク・オーシャンくらいしかいないのではないだろうか。

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