実験と暴走が生んだ怪物バンド、トレイル・オブ・デッドから振り返るUSインディー黄金期

トレイル・オブ・デッドの中心人物、左からジェイソン・リースとコンラッド・キーリー(Photo by Marc Broussely/Redferns)

テキサス出身のアンド・ユー・ウィル・ノウ・アス・バイ・ザ・トレイル・オブ・デッドが7年ぶりに来日。3月4日の渋谷Club Quattroではリリース20周年を迎えた『Madonna』、3月5日の新代田Feverではバンドの代表作『Source Tags & Codes』の再現ライブを行う予定で、サポートアクトとして踊ってばかりの国とトリプルファイヤーも出演する。虚実入り混じるエピソードの数々と、独創的すぎるサウンドを掘り下げるため、彼らをロッキング・オン編集部の頃からプッシュしてきたライターの天井潤之介に話を伺った。

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―まず、天井さんとトレイル・オブ・デッド(以下TOD)の出会いから聞かせてもらえますか?

天井:僕はちょうど1999年、『Madonna』がリリースされた頃にロッキング・オンに入ったんですよ。ただ、あのアルバムがマージから出た時点ではまだ存在を知らなかった。TODを最初に知ったきっかけは、2000年にモグワイがキュレーションしたAll Tomorrow’s Partiesっていうフェスのラインナップに入っていたから。音を聴いたことはなかったけど、異様に長いバンド名がやっぱり気になって。

―「...And You Will Know Us by the Trail of Dead」っていう、頭の3点リーダから目を惹きますよね。

天井:そうそう、当時話題だったゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラーより長かったし(笑)。でも、YouTubeやストリーミングなんてなかったから、すぐに聴くことはできなくて。そのあと、2000年にドミノから『Madonna』が再リリースされて、そこで初めて聴きました。



―あのときのATPはラインナップもかなり豪華ですよね。ポストロックの絶頂期という感じで。

天井:トップの大御所枠にシェラックとソニック・ユース、ワイアーがいて。それからモグワイ自身とシガー・ロス、ゴッドスピードが続いて、プラムやフォー・カーネーション、エイフェックス・ツインもいた。プライマル・スクリームのボビー・ギレスピーも別名義で出ていたりして(Bobby Gillespie’s Hair)。そのなかにTODがいたのも、いわゆるお墨付きって感じがしましたね。


ゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラーの2000年作『Lift Your Skinny Fists Like Antennas to Heaven』収録曲「Storm」

―このラインナップに入ってくるのも納得というか?

天井:そうですね。ポストパンクもそうだし、USハードコア以降の流れから派生したオルタナとか、アンダーグラウンドなロックの要素もありつつ、スロウコアやポストロックの隆盛も反映しているし、一番おいしい部分が詰まっているように思いますね。

―あと、モグワイがTODをいち早くフックアップしているように、UKでの人気が先行していたみたいですね。当時のシングルも、チャートにランクインしたのはUKだけで。

天井:彼らはドイツにも強力なファンベースがあるらしいです。でも、アメリカでは決していい扱いを受けていなくて。当時のUSロック・シーンの状況は、TODにとってはあまりいいものではなかったんですよね。

―『Madonna』が出た99年前後のUSロックシーンは、天井さんから見てどんな感じでしたか?

天井:ロラパルーザも97年に一旦終わったり、いわゆるUSオルタナが下火になっていた頃で。代わりに台頭してきたのがニューメタルやラップメタル、ヘヴィーロックだった。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、KORN、リンプ・ビスキット、スリップノットが中心にいて、ちょっと離れたところにナイン・インチ・ネイルズやマリリン・マンソンがいた。それと同時にグリーン・デイやオフスプリングあたりのポップパンクやエモ、いわゆるエピタフ系とか、ワープド・ツアーが盛り上がっていて。アメリカはその2つの大きな流れに一番勢いがあった時期だったから、そこにTODが割って入るっていうのは流れに反しているというか、やはり異端でしたよね。


リンプ・ビスキットの1999年作『Significant Other』収録曲「Re-Arranged」。TODは2002年の『Source Tags & Codes』リリースを前に、彼らやNIN、マリリン・マンソンなどが在籍していたユニバーサル傘下のインタースコープへ移籍する。

―TODの1stアルバムが出た98年には、エリオット・スミス『XO』や、マージ(『Madonna』のリリース元)からはニュートラル・ミルク・ホテル『In the Aeroplane Over the Sea』といったUSインディーの名作も生まれています。

天井:そうなんですよ、ローカルのインディー・バンドはすごく充実していたんです。オリンピアやポートランド、アセンズのエレファント6界隈の流れは影響力も大きかったし日本でも支持されていて、チームとしての活力は確かにあった。でも全体の流れから言えば、真っ当なギターロック・バンドにとっては不遇の時代だったかもしれない。

―ポストロックの象徴的作品であるトータスの『TNT』も98年ですよね。ほかにもフガジ『End Hits』、サニー・デイ・リアル・エステイト『How It Feels to Be Something On』、翌年のディスメンバメント・プラン『Emergency and I』など、ハードコア〜エモの流れを汲むバンドが音楽的な発展を見せていた時期でもあるのかなと。

天井:TODも局地的にはそういった流れを汲んでいたということですよね。


サニー・デイ・リアル・エステイト『How It Feels to Be Something On』収録曲「Pillars」

―そういう文脈でいうと、アット・ザ・ドライブイン(以下ATDI)の2作目『In/Casino/Out』も98年ですね。

天井:ATDIが2000年の頭に『Relationship Of Command』でメジャー・デビューしようという時期に、ロッキング・オンががっつり組んで盛り上げようとしたんですよ。ショーケース的なイベントなんかもあって。ATDIとミューズ、それからJJ72。この3組を誌面で盛り上げようって流れがあったのはよく覚えてます。こう振り返ってみると、同じテキサス出身のATDIが一緒のタイミングで活躍していたのは、TODにとっても大きかったですよね。盟友と呼べるようなバンドがいて。

―たしかに

天井:あと、TODとも繋がるポストロック〜ハードコアの流れでいうと、エクスプロージョンズ・イン・ザ・スカイもテキサス出身ですよね。だから、テキサスにも根強い流れみたいなものはあったんですよ。その背景にはバットホール・サーファーズやスクラッチ・アシッドがいて、そのさらに後方には、13thフロア・エレベーターズがいるという。TODの1stはバットホール・サーファーズのキング・コフィーが主宰したレーベル(Trance Syndicate)から出ていて、そこにはロッキー・エリクソンやアメリカン・アナログ・セットも在籍していた。そう考えてみると、(TODにも)縦と横の繋がりがあったはずなんだけど、そのあたりが日本ではいまいち伝わってなかったですよね。


アット・ザ・ドライブイン『Relationship Of Command』収録曲「One Armed Scissor」


バットホール・サーファーズの1993年作『Independent Worm Saloon』収録曲「Who Was in My Room Last Night?」

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