ジョン・レノン、たった1日で作り上げた「インスタント・カーマ」制作秘話

夕方には、楽曲のリハーサルを既に終えていたレノンとミュージシャンたちに新しいコラボレーターが加わった。「背の低い男が走り回っていたんだ」とフォアマンは言った。「『あの背の低い奴は誰だ?』って思ったよ。みんな演奏し始めていて、サウンドもいい感じで、スウィングしていて、すぐにまとまった。すると例の男が『ちょっとシンバルの音量を下げてくれないか?』とか『みんな集まって聴いてくれ』とか言ってる。その瞬間、フィル・スペクターだって気づいた。それまで一体誰なのか、全然わからなかったよ」

その頃、レノンと音楽プロデューサーでポップス界の変わり者として有名だったスペクターは親しい間柄になっていた。ユーモアのセンスも似ていて、スペクターはビートルズの『ゲット・バック』に入りきらなかった楽曲をタッチアップし、後に『レット・イット・ビー』となるアルバムに取り掛かっているところだった。レノンの新曲に着手し、完成させる——どこかの段階でこうした決断が下された。それは、当時のビートルズの骨の折れるセッションから離れることを意味した。「最初はジョークのつもりだった」とフォアマンは語った。「ジョンとフィルはすごく仲が良くて、『1日でやろう!』って言い出した。2人もジョークのつもりだったけど、最終的にはやりきった」

スペクターは「ウォール・オブ・サウンド」のアプローチをもとに、ピアノの部分を2倍、3倍と増やし、ドラムのビートをおさえるよう(シンバルも不要)ホワイトに指示した。「フィルがやってきて、『どんな感じにしたい?』って聞いてきた」とレノンは思い出をたどりながらローリングストーン誌に語った。「だから『1950年代の感じがいいな、わかるよね?』って答えたら『オッケー』って。あとはジャーン! 3回くらいはやったかな。フィルのところに行って、聴いた。そしたらもう完成さ。もう少しベースがほしい、くらいしかリクエストしなかったよ。後はお疲れ様って」

コーラス部分に厚みをだそうと、プレストンを含むセッション参加者の数名は近くのスピークイージー・クラブに行き、スタジオまで来て一緒に歌ってくれないか、と常連客に声を掛けた。そのなかには、キャヴァーン・クラブ時代にビートルズと会っていた歌手のベリル・マーズデンもいた。「断る理由なんてないわ」とプレストンの提案を振り返りながらマーズデンは言った。完成した楽曲を聴き返したフォアマンは衝撃を受けた。「最高のサウンドだと思った」とフォアマンは言った。「フィルがエコーとかを色々加えてくれたおかげで、すばらしい仕上がりになっていた」

レノンとオノにクレジットを入れ、プラスティック・オノ・バンド名義で1970年2月に英EMIから大急ぎでリリースされた「インスタント・カーマ」は単なる良作ではない。嵐のような騒々しさには、人を引き込む力があるのだ。レノンの周りにいた人々にとって、この楽曲はビートルズ後のレノンの人生を予告するものだった。これまでにレノンはビートルズの活動以外に楽曲をレコーディングし、リリースしてきた。オノとの2回にわたる実験的なアルバム『未完成』や、「コールド・ターキー」、「平和を我らに(原題:Give Peace Chance)」などがそうだ。しかし、「インスタント・カーマ」を生んだスピードとパワーは、ビートルズの3人なしでも自分だけで納得のいく音楽が作れることを証明した。「もちろん、それがフィルのすごいところなんだ」とレノンはローリングストーン誌に語った。「どのステレオがいいとか、その類のくだらないことはまったく気にしない。サウンドが良いか悪いか、良いなら傑作であっても、そうでなくても、キープしよう。素人として、あるいは人間としてそれがいい曲だと思うなら、あれに似ているとか、クオリティがどうだなんて忘れて、とにかく手元に音源を残そうと言ってくれる」

「『インスタント・カーマ』への取り組みにはシンプルさがあり、それはビートルズにはできないものだったと思う」とフォアマンは言った。「ジョンは前よりも自分が自由だと感じた。ジョンはいつもできるだけ早く形にしたい、と思っていたから。時々そうした感覚を失ってしまうことも感じていたんだ」とりわけ3カ月後に「ビートルズは終わった」とポール・マッカートニーが世に放った発言の反響は、計り知れないものになるのだった。





Translated by Shoko Natori

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