クイーン、フレディ・マーキュリーの知られざる10の真実

10. マーキュリーは自分の埋葬地を秘密にするよう言い遺し、現在もその場所は謎のまま

マーキュリーは1987年春にAIDSと診断され、その後徐々に周囲の人たちへ自分の病状について明かし始めた。「彼は打ち合わせのために自宅へ僕らを集め、真実を明かした。とにかく僕らは、その事実を受け入れ始めなければならなかった」とテイラーは、ドキュメンタリー『Freddie Mercury: The Untold Story』の中で語っている。弱ってやせ細っていくマーキュリーの姿に、不滅に見えたフロントマンが重病にかかっているのではないかというメディアの推測が飛び交った。しかしバンドは全員一致して、いかなる問題もないと強く否定した。「僕らは全てを秘密にした。嘘をついていたんだ。とにかく彼を守りたかった」とメイは、ドキュメンタリー『輝ける日々』の中で語っている。

1990年の年末までにバンドはアルバム『イニュエンドウ』を完成させた。同アルバムには、哀愁漂うバラード『輝ける日々』も収録されている。マーキュリーの身体的な衰えを直接的に表現している訳ではないが、クイーンの初期の時代を思い起こさせる。彼の健康状態に対する不安は、1991年5月30日に撮影された同曲のミュージック・ビデオで急激に高まった。モノクロで撮影したものの、AIDSによって蝕まれるマーキュリーの身体の状態をごまかすことはできなかった。「彼は何時間もかけてメイクし、気持ちを落ち着けて順調であるように見せていた。彼はこのビデオを通じてサヨナラを言っているんだ」とメイは、2011年にインディペンデント紙に語っている。マーキュリーの可愛がった猫たちを描いた特注のベストを着た最後のシーンで彼は、カメラに向かって微笑み、「I still love you」とささやく。これがカメラの前で発した彼の最期の言葉になった。

撮影の数週間前、マーキュリーはスイスのモントルーに滞在し、弱っていく身体の状態が許す限りレコーディングを続けていた。メイによると、レコーディングはマーキュリーに正常な感覚を保たせていたという。「この時フレディは言ったんだ。“曲を書いてくれ。もう長くないことはわかってる。歌詞を書き続けてくれ。どんどん俺にやらせてくれ…俺は歌うから。君らが後で好きなようにして完成させてくれ”ってね」とメイは、ドキュメンタリー『輝ける日々』で証言している。

プロデューサーのデイヴ・リチャーズは、セッションを急ぐ必要性を感じていた。楽器類を調整するのに何時間もかける時代は過去の話だ。「曲を作りながらも彼は死に近づいていった。レコーディングを終えたら死ぬだろう、と彼は自覚していた。彼は、“俺は今すぐ歌うよ。彼らの演奏を待っている時間はない。ドラム・マシンだけ鳴らしてくれ。後から彼らが仕上げてくれるから”と言った」

メイの書いたスローに盛り上がる壮大な楽曲『マザー・ラヴ』にマーキュリーは、いつもの調子で取り組んだ。「どこからあのエネルギーが出てきたのだろうか」と後にメイは、テレグラフ紙に語っている。「恐らくウォッカがエネルギー源だったろう。彼は乗っていた。少しウォーミングアップして、“一杯くれ”と言って飲み干していた。いつも銘柄はストリチナヤだった。それから“テープを回してくれ”と言って始めるんだ」 長時間立っていられず、歩くにも杖が必要だったマーキュリーは、『マザー・ラヴ』のヴォーカルをコントロール・ルームでレコーディングした。

「終わりから2番目のヴァースまでレコーディングしたところで彼が、“あまり良い調子じゃない。今日はここまでにした方がいい。次に戻ったら仕上げるよ”と言ったんだ。でもその後彼がスタジオへ戻ることはなかった」 結局メイが最後のヴァースを歌い、曲を仕上げた。

マーキュリーはその後ガーデン・ロッジへ帰り、ジム・ハットンとメアリー・オースティンが彼の世話をした。オースティンは彼の元恋人で、1970年に初めて出会い、7年間一緒に暮らした。もう同居はしていなかったが、生活は共にしていた。インタヴューで彼はいつでも、彼女のことを真の友人と表現していた。ジャーナリストのデヴィッド・ウィッグとのインタヴューで遺言の話題になった時、「全てをメアリーと猫たちに遺す」と語っていた。クイーンの繊細な名曲『ラヴ・オブ・マイ・ライフ』は、彼女に捧げた曲だった。

オースティンは、ソウルメイトの命の火が徐々に小さくなっていくのを見ていた。「彼は自分のタイムリミットを決めていた。レコーディングが続けられなくなった時や、続ける気力のなくなった時、終わりが来ると思ったわ」と彼女はドキュメンタリー『The Great Pretender』で語っている。「彼の人生も彼の喜びも、その通りだったから。そうでなければ彼は、自分のすべきことに向き合えるだけの力が出なかったはずだと思う」

避けられない死を前にしてマーキュリーは、準備を始めていた。「日曜のランチの後に突然、“僕を葬って欲しい場所は決めている。でも誰にも知らせないで欲しい。掘り返されるのは嫌だ。ただ安らかに眠りたいんだ”って言われたの」

1991年11月24日、マーキュリーはAIDSが原因の気管支肺炎によりこの世を去った。彼の亡骸は、ロンドン西部にあるケンサル・グリーン墓地で火葬された。遺灰は壺に入れられオースティンの寝室に2年間置かれていたが、その後彼女は密かに彼の希望した場所へと移した。「普段通りでないことをしようとしていると他人に悟られたくなかった。だから“美顔エステに行ってくる”と言って出かけたの。説得力のある理由が必要だった。タイミングを計るのが難しかったわ」と彼女は、2013年にデイリー・メール紙に語っている。「壺を持ってこっそりと家を抜け出した。スタッフに悟られないように、いつも通りに振る舞う必要があったの。スタッフはゴシップ好きで、喋らずにはいられないし。彼の遺志の通り、誰にも埋葬場所が知られることはないわ」

マーキュリーの両親にも場所は秘密にされているようだが、墓参りをしたいと思うファンは、場所を突き止めようとしてきた。マーキュリーの出身地であるザンジバルだという者もいれば、自宅の庭に生える桜の木の下だと信じている者もいる。

2013年に謎は解けたと思われた。マーキュリーの出生時の名前(Farrokh Bulsara)と日付(5 Sept. 1946 – 24 Nov. 1991)の刻まれた墓石が、ケンサル・グリーン墓地で見つかったのだ。“Pour Etre Toujours Pres De Toi Avec Tout Mon Amour – M.”とフランス語で書かれたメッセージの最後の“M”は、メアリー・オースティンを指すに違いない、と多くの人が推測した。

オースティン自身は、「フレディは絶対にその墓地にはいない」と否定している。その後、銘板は取り外された。今なお、彼の埋葬地は不明のままだ。

Translated by Smokva Tokyo

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