クイーン、フレディ・マーキュリーの知られざる10の真実

1985年7月13日、イギリス・ロンドンで行われたライヴ・エイドに出演したフレディ・マーキュリー(Photo by Peter Still/Redferns)


5. ロイヤル・バレエ団との共演

セックス・ピストルズは知る由もなかっただろうが、マーキュリーは「バレエを普及する」と自分で宣言したことを実現しようとしていた。1979年8月、ロイヤル・バレエ団のプリンシパルだったウェイン・イーグリングは、チャリティ公演で共演できる特に身体に柔軟性のあるスターを探していた。ケイト・ブッシュに辞退されたイーグリングは、マーキュリーに目を付けた。

当初、マーキュリー側のリアクションは前向きではなかった。「(自分を誘うとは)彼らは気が狂っている」と思ったという。しかし結局、EMI代表だったジョセフ・ロックウッド卿と話し合った結果、出演のオファーに興味を持つようになった。ロックウッドは、たまたまロイヤル・バレエ団の理事長でもあった。「フレディはバレエ全般に興味を持っていたが、ロックウッドが彼のやる気に火をつけた」と、クイーンのマネジャーだったジョン・リードが、ドキュメンタリー『The Great Pretender』の中で語っている。「彼は壮大なスケールに魅力を感じた。そしてフレディのパフォーマンスも壮大だった」という。完璧な組み合わせだったのだ。

クイーンのステージにおけるマーキュリーのパフォーマンスはスポーツのようだったが、バレエに関しては、そこそこのレベルへ達するまでに激しいリハーサルが必要だったろう。「バーを掴んだり脚を伸ばしたりしてひと通り練習させられ、彼らが何年もかけて修得したことを1週間でやろうとした」と、マーキュリーはロンドン・イヴニング・ニュース紙に語っている。「過酷だった。練習を始めてから2日目で既に苦しかった。それまでに経験したことのなかった身体の部分に痛みを感じた」



マーキュリーは1979年10月7日、ロンドンのコロシアム・シアターに集まった2,500人の後援者たちの前で、華麗なデビューを飾った。彼はオーケストラの生演奏をバックに、上半身裸の3人の男たちに高々と持ち上げられながら『ボヘミアン・ラプソディ』と、クイーンの間もなく発表されるシングル『愛という名の欲望』を歌った。パフォーマンスの最後に銀のボディスーツに身を包んだマーキュリーは、難易度の高いフルボディのフリップを披露した。

「あんなことをやってのけられるのは、世界中でただ一人だ」と観客席にいたロジャー・テイラーはブレイクに語った。「フレディは、平均年齢94歳の堅苦しいロイヤル・バレエ団の観客の前でパフォーマンスした。彼らは、目の前のステージ上で宙に放り投げられている銀色をしたものがいったい何なのか、理解できなかっただろう。とても勇気のいることだったろうし、かなり盛り上がった」

マーキュリー自身は、その時のことをユーモアたっぷりに振り返っている。「バリシニコフには及ばなかったが、歳の行った初心者にしては悪くなかった。ミック・ジャガーやロッド・スチュワートにもやって欲しいよ」

6. 『愛という名の欲望』は入浴中に書いた曲

1979年6月、クイーンは後に『ザ・ゲーム』としてリリースされるアルバム製作のために、ミュンヘンに滞在していた。マーキュリーは豪華なバイエリッシャー・ホーフ・ホテルへチェックインし、旅の疲れを癒すために風呂に浸かった。その時、あるメロディが彼の頭に浮かんだ。しゃっくりのようなロカビリー・ナンバーで、やや皮肉の混じった曲だった。少年マーキュリーのヴォーカルに大きな影響を与え、数年前にこの世を去ったエルヴィス・プレスリーに対する愛のこもった曲だった。マーキュリーはアシスタントのピーター・ヒンスに頼んで、部屋へアコースティック・ギターを持ってこさせた。バスタオルを巻いて、彼にしては珍しくシンプルな楽曲の骨格をおぼつかないギターで組み立て始めた。

「『愛という名の欲望』は5分か10分で書き上げた」と1981年にマーキュリーは、メロディ・メイカー誌に明かしている。「上手くもないギターで作ったんだ。僕はコードを2つか3つしか知らないという制限があったから、かえって良かった。限られた狭いフレームワークの中でシンプルに作る必要があった。コードが大量にあっても処理しきれなかっただろう。だから制限があったおかげで良い曲が書けたんだと思う」

曲の骨格ができあがったところで彼はエンジニアのレインホールド・マックにレコーディングの準備をするように伝えると、すぐにミュージックランド・スタジオに籠もった。「大急ぎで準備しなければならなかった」とマックはドキュメンタリー『輝ける日々』で語っている。メンバーも招集されたがメイだけが遅れていた。しかしマーキュリーはメイを待とうとしなかった。それどころか彼はメイの完璧主義からしばらく解放されるとわかって、少しホッとしていた。「マーキュリーは、“ブライアンが来る前に早く仕上げてしまおう。奴が来ると長丁場になっちまうから”と言っていた」と、マックは笑う。

案の定、メイがスタジオへ到着した頃にはほとんど終わっていた。「ブライアンは気に入らないだろうな」と誰かが言うのをマーキュリーは耳にした。その通り、メイは気に入らなかった。当初、彼には何か訴えるものが感じられなかった。しかも使用するギターを、彼のトレードマークである“レッド・スペシャル”(それまでクイーンのレコーディングのほとんどで使用していた)から、より1950年らしいフェンダーのテレキャスターに持ち替えるよう言われたことで、余計にムッとしていた。「俺は面白くなかった」とメイはブレイクに語った。「俺は初めは抵抗したが、これも正しいやり方だということがわかった」



その通り、1979年秋にシングルとして先行リリースされた同曲は、世界中のチャートで1位を獲得した。「その頃はまだアルバムが完成していなかったので、僕らはレコーディングを続けていた」とテイラーはドキュメンタリー『輝ける日々』の中で振り返る。「ミュンヘンの街へ出かけると、誰かが来て言ったんだ。“アメリカで第1位になった”ってね。それで僕らは“やったぜ乾杯だ!”って感じだった」

Translated by Smokva Tokyo

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